転生
しらんけど。(そんな話するつもりまったくなかったんだけど、、なんで?ちょっとカンケーなさすぎなので、次の機会にちゃんと、、色の話と施術の話を。いつか。)
以前、ボディワークの仲間から志村ふくみさんの話を聞いて、それから、、わたしの学んでいるバイオダイナミクスの世界(九年間の学び。クラニオセイクラルではありません。)ととても似ている、、その本質は同じ(にみえる)なので、、なんかずーっとどこかで意識していますし、そこからも学びがあるだろうな、という糸のつながりのようなものが、そこにある。と感じています。
話は変わりますが、ここでも引用したことあるかもしれませんが、ダライ・ラマの動画をみていて、、荒い意識や肉体は、死ぬと消滅する、、しかし、、もっとも本質的な意識、もっとも精妙な意識は、、消えず次の転生に進んでいく。みたいな話。その個を構成するカラダ、、その個性の部分、、個性の領域の意識と肉体、、それらは荒い領域、、それらは消滅する。(つまり、一般的な世界の意識でとらえている「そのひと」は消滅します。)そして、その個を構成する、、最も静かな、神聖な領域、、それは、個とはいわない、、もっと大きなものに含まれ、もっと大きなもの自身である。(無意識のうちに捉えている、、そのひと。)それが転生に向かう。
だから、一般的に皆さんの多くがいうところの転生とは、ちょっと意味合いが違うと思うのですが、、というのは、この個人の個性の部分は転生するわけではなく、その個のもっとも精妙なところ、そこは、思考とか感情のもっと外側、、。つまり、「そのひと」と認識する個性、肉体、容姿、感情、思考、、その部分ではない。ではその外側とは?
『・・・(※1、志村ふくみさんの言葉の引用。。)』(わすれたのでちょっと調べて後で記載してみようと思いますー。)
そこの部分(?)(という区別もないところ)なのだ、ということなら、転生とかっていうのもあるかもなー。なんて思ったりします。だから、転生して次の世で会いましょう。とか、前世の『傷』がどうとか、そういうことではなくって、この生きる存在の我々は『そういうこと』なんです。
※ただ、この世に感情を残し、そこにとらわれ、とらえ、混沌から離れないと、いうひとは、アストラルの存在(悪霊の類)として、残る、、みたいな話を聞いたことあるので、(ほんまかしらんけど)、感情とかそういうところは相手にしないで、本当のことを見つめてくださいな。そこから、はなれ、本当の。
ひとつ志村ふくみさんのお話で記憶にあるのが、色はこう、、宇宙のどこか彼方からやってきて、それをその瞬間にこの手ですくう、、そこに発現する。みたいなことを覚えてます。色って、人間の範囲(思考、技術、技、感情や、知識、望み)のことで起こることではない、、どちらかというなら「祈り」みたいなところ。そんな印象でした。
そこに感情や人間の想いなんてないじゃない?それが、本当で、、その感情や思考や、、、その範囲の外側に、それはあって、しかし、それは我々の個の構成の要素でもある、、。この内側の果てには、無がある。内側の果ては、外側の果てにつながっている。そこに至るのが、、。バイオダイナミクスや機織りでも起きていることなのかなー。しらんけど。
あと、ひとつ印象的なのが、最近。
染色では、緑色は出ない、、ってこと。植物から緑色の染料はとれない。藍からは、、カメから引き上げて、、緑色だが、空気に触れると一瞬でその緑色は消えてしまう。緑色を染色でだすには、黄色と青色を掛け合わせることでできるらしい。
緑色。
ボディワークで、、人の体の構成として、(まだ書いてないと思うけど)チャクラという観点があるとして、それは、下から順に、尾てい骨、仙骨、太陽神経叢、ハート、喉、眉間、頭頂。その色は、、
あ、ところで、、志村ふくみさんのほんで引き合いに出されていたと思うんですが、だれか、、西洋の哲学者?だったかな、名前忘れましたが、、緑色は、、もっとも光に近い黄色と、もっとも闇に近い青色から、生まれる、、みたいなはなし。
話は戻って、チャクラの色。黄色と青色は、太陽神経叢(黄)と喉(青)の色。ハートは緑。
太陽神経叢(エゴ)からハートへの移行、シフト、、それは、下から順に開く、、という風に聞いていたように思いますが、、開き、、ハートが開き、それが、、どういうことなのかな?という風に考えることがあって、もしかして、喉が開いて、、創造力と奉仕が開いたときに、本当にハートが開く、、のかな?
なんて考えたりしてー。
※太陽神経叢=エゴ、ハート=無償の愛、喉=精神的な創造性、奉仕。
ハートと喉は、腕につながり、、この世に具現化する。
この両手で何をするのか????
※腕は、ハートと喉からの流れにつながっています。
※1)あー、いろいろありますね。みなさんも本など手に取って見られては?
これとか、
『空や海、虹や夕焼けの色は透明で、ものに付着していないから、手に触れることはできません。植物の葉っぱや大地は、色がものになりきっています。透明で漂っている色と、ものと一体になっている色との中間に私の仕事はあると思うのです。木や葉を炊きますと色が液体の中に溶け込んできます。それをものに付着させるわけですね。色がどこかから射してくるという感じなのです。透明な海や空のような色を糸や布に浸透させる瞬間に立ち会えることは幸いです。色が出てくるときに、人間がパッと手を添えてそのお手伝いをするというようなことだと思いますが、それ以上でしゃばると、色はそっぽを向いてしまうんです。』
とか
『瞬間の色というのがあるんですね。それはどうやら緑。それは生命そのもので、刻々に変わって、刻々に滅んでいく色なんですね。緑がなぜ出ないのかと思っていたときに、ゲーテの『色彩論』を読むと、光に一番近い黄色と、闇に近い青が結合したときに緑になると書いてあったんです。光と闇。それが藍甕の中ではっきりと出てくるんです。甕の中から一瞬出てくる緑は、パッと消えちゃう。それはこの世ならぬ色をしています。』
バイオダイナミクスの世界と同じ(?)ですね。