バイオエナジェティック
静かな瞑想のような施術です。※エネルギーワークではありません。
まず、何をしているのかを物理的に、ざっと描いておきましょうか。
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ある一部分だけです。とても文字では表せません。(※「トラウマワーク」ページと重複してしまう部分があります。)
深い睡眠、、。生命の働く領域へ。。
回復、癒し。。何かが起こっている。
癒しの起こる領域がある。
みな、、どこかで知っている。スピ系ではない、事実。みながどこかで知っている世界。実質がある。
よく眠ると、回復する。
なぜ?睡眠中どこに行っているのだろうか⁉️何が起こっているのだろうか?
人の体を施術するとき、おおきく3つの方法がある。物理的に、施術の方法は3つに分類される。
①直接法、②間接法、③バランス法
たとえば、外部からの衝撃により腕がまっすぐのびなくなってしまった、という場合を例に説明しますと、、。
①直接法
衝撃の入ってきた方向に対し、力を加えて真っ直ぐに戻す方法。圧力をかけて、など。一般的なマッサージや強圧の持続圧の筋膜リリース、一般的なロルフィングの手法もこれにあたります。(※私のロルフィングではあまり使わない手法です。)
この手法は、「組織を変形させる」手法ですね。
②間接法
衝撃の入ってきた方向に、より曲がった腕を強調するように力を加えます。そこでしばらく待っていると、、神経系のリセットがかかって組織は緩み元に戻ります。
組織の変形ではなく、「神経系のリセットをかける」手法ですね。
③バランス法
さて、3つめ。バランス法です。これは、入ってきた外力に対して力を加えて直したり/強調したりするのではなく、、その組織の(ここでは腕の)抵抗がなくなる、、ノーテンションの完璧なバランス点を見つけます。ちょーど何も消えてしまう、意図も何もない、、点。そこで待っていると、、あらゆることが調整が体の内側で起こり、、腕はまっすぐに戻ります。
これがバランス法。
体の内部の調整が起こる場所、で待つ。という手法です。
ですので、施術者には何が起こっているのか、施術に必要な情報だけしかわからず、どんな調整が起こっているのかは神秘の世界、になります。深い睡眠状態で体が癒しを起こす、、しかし、何が起こっているのか、、無数なことが起こり人の頭の理解は到底追いつかない。そんな世界に入っていきます。
①直接法、②間接法、③バランス法、これらの3つでどんな種類の施術も行われています。これら3つの手法はオステオパシーの世界です。一般的にほとんどの施術は組織を変形させる①の直接法をもちいていますね。一般的なロルフィングも①の直接法です。この3つの手法に優劣はなく、どれを選択するのか、その時と場合によって自由に行き来することができます。
私の場合は、③バランス法を主に使っていますが、超繊細な感覚世界でバランスをとって施術しています。不思議な世界、、受け手の方も”不思議”という感想をよくいただきます。そう、ここでの世界では施術者は何が起こっているのか、を全て知覚することは不可能です。ただ、そのとき必要なことを必要な分だけ、施術する、、そのサインを、見つける。たとえば、ノーテンションから外れていないか、バランスを取り続けられているか、、そのときの身体感覚を超繊細に、、瞑想のように、、体の必要なこと、言い換えると、体の指示に従いながら、、その解放と癒しの道筋をたどり続けていくのです。
このノーテンションの何もなくなるところ、、そこを知覚している、、超繊細に。そこに触れることができたのなら、、まるで深い睡眠を経て回復するように、、体は変容していきます。誰かに何かを変えられたのではなく、あなた自身の体の叡智により、あなた自身が変容していく、自然な姿。誰にも変えられない、あなた。
この不思議な点の先にあるもの、それは、イメージや想像で作り出したりは決してしません。人間の意図により作り出されたものは、嘘と矛盾の世界、、どこかで何かが間違えています。何も変えない、、なにも作らない。生命の叡智に従うだけ。
その点をステイルネス(静寂)と表現するとしたら、、。そこを知覚し、そこに触れることがボディワークにはできる。スティルネス、、叡智に触れること。
深い眠りの癒しのように、起こることが起こります。
治療とは
意図がなく、自然と、純粋で美しいものに、、シンクロするように調和していく。
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透明な流れに気がつく、すでにそこにあった流れに気づくことで、自然と、、そこに合わさっていくように整っていく。自分が何かを変えるのではなく、自分が静けさに変えられていく。。
回復
過去の解消、つまりそれは、体の歪みの解消。
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体に溜まった衝撃のエネルギーが去っていくこと。そして”同時”に健全(生命力、神秘、=我々の本質、本来の姿)で満たされていくこと。
歪みが解消され元気になっていく。
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ここで特に注意したいのは、解放で終わらないこと。解放して放置すると、崩壊する。または、穴が開く。穴を放置するとそこに何か別のものが入ってきてしまう。解放と”同時”に、自分の本質、本来の姿である、生命力、、で満たされていくことが大切です。
生命力とは何か、神秘とはなにか。それをオステオパシーでは”健全”と呼ぶらしい。健全とは、、われわれを生かす力。我々を生かす力はどこからやってきているのか、その力はどこか”外側”からやってきて、いまも私たちを生かしている。
わたしのバイオエナジェティックの世界観
学び初めて7年半ほど。まだまだオステオパシーもバイオエナジェティックも学びの途上です。一生の学びになるでしょう。
すごい”力”は決して使わない
決して人間の意図により何かを変えてしまわない。人間の意図は、全知全能ではない、、どこかに矛盾を生み、混沌を生み出してしまう。
物理的な人工物、理論、、そして、感情。人間の世界は感情の世界でやりとりをしている。こうしたい、これがいい、治したい、元気になってほしい。ネガティブ/ポジティブに関わらず、人間の世界から手を出すと、自然界は混沌とする。本来の自然界に属する我々の物質としての体も、それに含まれる。
この人間界の混沌。それをもたらした、理論、感情、、我。エゴ。物質には限界があり、、もっと不思議な世界があるのだとしたら?、、すごいことが起こせる、不思議な世界が。。もし、そうだとしたら、恐ろしいことになると思いませんか?
限界のある物質の力も、人間のエゴ、感情ややりたいことから使うとこれほどの混沌を世界にもたらしている。さらに強い力、すごい力を手に同じ立ち位置、エゴ、感情、からその力を使ってしまう時、、どれだけの混沌を生み出してしまうのだろうか。スピ系、、巷に溢れる不思議な力を使うこと、、よく見極めなければなりません。
私が学んできたことは、、『すごい力は決して使ってはならない』、ということ。
自分が、自分の意図で、自分のやりたいことなど決してしないこと。施術の場では、、自然界、、に従うこと。超自然界で施術をするには、、『自分は役に立たないもの』、であることが大切だと思います。
ここで、バイオダイナミクスの創始者の先生からのおすすめであると聞いた本の抜粋を載せておきます。クリスチャンの本のようです。
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『静まりから生まれるもの、ヘンリ・ナウェン著』
独り静まる生活
- Our Life in Solitude
キリスト者として生きるということは、この世に属さずに、この世に生きるということです。こうした内なる自由は、独り静まる中で育まれます。イエスは祈るために寂しい所に出て行かれました。それは、自分の持つ力はすべて与えられたものであること、自分が語る言葉もすべて父からのものであわざること、また、自分がする業はすべて、自分ではなく、自分を遣わされた方の働きであることを、さらに深く自覚するためでした。この独り静まる所でイエスは、失敗してもよい自由を与えられたのです。
独りきりになる所のない生活、つまり、静かな中心を持たない生活は、簡単に破滅的なものになってしまいます。自分が何者であるかを証明するものとして、自分の活動の結果だけにしがみついていると、わたしたちは物事に執着するようになり、自分を守るために身構えるようになります。そして他の人を見る目が変わってきます。命の賜物を分かち合う友としてより、なるべく近づきたくない敵として見るようになるのです。
独り静まる中で、自分の執着心で凝り固まった幻想の正体をだんだんと見ることができ、そして、本当の自分とは、自力で勝ち取ったりするものではなく、与えられるものであることに目が開かれてきます。独り静まる中で、こちらが口を開こうとする前に語ってくださる方、誰かを助けようと動こうとする前にわたしたちを癒してくださる方、他の人を解放しようとするずっと前にわたしたちを解放してくださる方、そして、誰かを愛そうとするずっと前にわたしたちを愛してくださる方の声が聞こえるようになるのです。
この静まりの中でこそ、何を持っているかより、生きている自分の存在自体が大切であること、また、努力した結果より、わたしたち自身のほうがはるかに尊いことが分かってくるのです。独り静まる中で、わたしたちの命は、奪われないように守るべき所有物ではなく、他の人と分かち合うべき賜物であることに目が開かれてきます。わたしたちが語る癒しの言葉はわたしたち自身のものではなく、与えられたものであること、わたしたちが示すことのできる愛は、より偉大な愛の一部分であること、わたしたちの生み出す新しい命は、しがみつくべき所有物ではなく、受け取るべき贈り物であることが分かってくるのが、この静まりにおいてなのです。
独り静まると、自分の価値とは、どれほど人の役に立つかではないと気づくようになります。このことについては、老子の教えにある、大工とその弟子の話に出てくる老木から多くのことを学べるでしょう。
ある大工とその弟子が、深い森の中を一緒に歩いていた。ある所まで来ると、そこに本の巨大な、節だらけの、見事な樫の老木があった。すると大工は弟子に、「この木はどうしてこんなに高く、大きく育ち、たくさんの節をつけた見事な老木になれたか分かるかね」と尋ねた。弟子は師匠をじっと見て答えた。
「分かりません。なぜでしょうか」大工は答えた。「それはだな、これが役に立たない木だったからだ。もし、この木が役立つものだったら、とっくの昔に切り倒されて、机とか椅子になっていたことだろう。しかし、何の役にも立たなかったからこそ、おまえがその木陰に座って憩うことのできる、これほどの高さの見事な木になれたのだ」
独り静まる中でわたしたちも、自分はどれほど人の役に立つだろうかという思いにとらわれずに、のびのびと年を取ることができ、自分が計画したわけではないのに、何らかの奉仕を人にすることができるようになります。そして、この世―それが、父、母、子ども、職歴、功績、あるいは報酬であっても―に依存することが少なくなればなるほど、失わないようにと守るものも少なくなり、むしろ分かち合うことがたくさんある信仰の共同体を建て上げることができるようになるのです。なぜなら、信仰の共同体として、わたしたちはこの世を大切にはしても、決して過度に重視しないからです。このような共同体では、自分自身を笑うことのできた教皇ヨハネと同じ心をわずかでも身につけられるでしょう。勲章で飾り立てたある政府の高官が教皇にこう尋ねました。「教皇さま、ヴァチカンで働いている人は何人ぐらいいるのですか」。しばらく考えてから教皇は答えました。「そうですね。半分ぐらいでしょうか」
信仰の共同体として、わたしたちは一生懸命働きますが、結果が思わしくなくても崩れてしまうことはありません。信仰の共同体として、わたしたちは、次のことを絶えず確認し合います。わたしたちがまったくの独りきりになる所で、「恐れるな。あなたは受け入れられている」と語ってくださるお方の前において、ありのままの姿で、弱さを持った者たちの交わりを形成しているのだ、と。
〜編集中〜