バイオエナジェティック

静かな瞑想のような施術です。※エネルギーワークではありません。とても繊細な感覚でバランスを取ることで、体が自ら変化していくのを待つような静かな施術です。


神聖なものがこの世界に本当に(実感を持ってリアルに)あるのだとしたら。それはバイオエナジェティックが教えてくれた。見せてくれた。

意図がなく、自然と、純粋で美しいものに、、シンクロするように調和していく。透明な流れに気がつく、すでにそこにあった流れに気づくことで、自然と、、そこに合わさっていくように整っていく。自分が何かを変えるのではなく、自分が静けさに変えられていく。アライメントされていく。。

 

 

回復

過去の解消、つまりそれは、体の歪みの解消、保持しているエネルギーの解消、体に溜まった衝撃のエネルギー、感情のエネルギー、が去っていくこと。そして”同時”に健全(生命力、神秘、=愛。感情や判断や思考の混ざらないもの。”愛情”ではなくもっとなにもないもの。)で満たされていくこと。

 

すると歪みのために消費されていた生命のエネルギーは全体に還り元気になっていく。歪みで堰き止められていた代謝の流れが回復し滋養を与え毒を排出し、さらに元気になっていく。

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ここで特に注意したいのは、解放で終わらないこと。解放して放置すると、崩壊する。または、穴が開く。穴を放置するとそこに何か別のものが入ってきてしまう。解放と”同時”に、自分の本質、本来の姿である、生命力、、で満たされていくことが大切です。

生命力とは何か、神秘とはなにか。それをオステオパシーでは”健全”と呼ぶらしい。健全とは、、われわれを生かす力。我々を生かす力はどこからやってきているのか、その力はどこか外側からやってきて、いまも私たちを生かしている。

 

 

自然の治癒力

続いていく治癒の流れ。回復とは、何かを付け加えたり、正したり、矯正したり、直したりすることではなく、フロー(流れ、代謝の流れ、エネルギーの流れ、本来備わる自然な流れ、、)が本来の道筋のままに流れていくこと。

 

流れが治療する、流れが押し流し解毒していく、流れが滋養を与え活力を与える、生かしていく。さらに流れが構造を整えていく。

 

 

自然のエネルギー

それは体が自然な姿に、透明な静かな流れに調和してきた時に、、自然と現れてくるもの。

 

 大事なことは、意図で変えようとするのでは決してなく、そこにすでにある生命の力の体現である”流れ”に従うこと。それがバイオエナジェティックの施術者の姿勢です。

 

 

大地の再生と体の再生

 

我々を生かす力はどこにあるのか?フロー(流れ、代謝)が治療するとはどういうことなのか。

 

それは自然界の観察、自然界の法則、大地の再生ととてもよく似ている。「体の再生」ページを参照ください。

 

 

トラウマからの回復

 

バイオエナジェティック・オステオパシーに辿り着いたのは、わたし自身が辿った癒しのプロセスでもありました。

 

その経緯は「トラウマワーク」ページの下の方(わたしのトラウマからの回復、体験談)に書いてみました。

 

 


わたしのバイオエナジェティックの世界観

(個人的な認識です。まだ学び初めて7年半ほど。まだまだオステオパシーもバイオエナジェティックも学び中です。一生の学び、終わらない学びになるでしょう。)

自然界に従う

自然界は完璧な調和、頭脳では捉えきれない神秘のシステムが働いている。分析はできない、ただ五感で感じ学び、透明な自然界にシンクロしたところで考え、意図を捨てたところにある真の姿を見つけ、従うだけ。

 

人間の意図は、矛盾を生み出す。この世界で、人間の意図により不具合や矛盾が多発して、世界はもう限界、、みたいな感じになってるじゃないですか?自然環境、などなど。人間の計画は、全てを含んでいない。こっちを治せば、あっちがおかしくなる。。こっちの意見とあっちの意見、、もうむちゃくちゃ、混沌です。

 

一方で、自然に倣い、自然に従い自然に沿う、、そんな生き方をしている人たちもいます。何も乱さない、、。そこに見えるのは、自然の観察から、、その背景には、超自然界とも言える、神秘があります。

 

その自然界の何も色付けも意味付けもされていない、ところ。そこから始め、そこに従うのがバイオエナジェティック・オステオパシーだと思います。

 

すごい”力”は決して使わない

 

  • 人間の意図は混沌をもたらす

決して人間の意図により何かを変えてしまわない。人間の意図は、全知全能ではない、、どこかに矛盾を生み、混沌を生み出してしまう。

 

物理的な人工物、理論、、そして、感情。人間の世界は感情の世界でやりとりをしている。こうしたい、これがいい、治したい、元気になってほしい。ネガティブ/ポジティブに関わらず、人間の世界から手を出すと、自然界は混沌とする。本来の自然界に属する我々の物質としての体も、それに含まれる。

 

 

  • もっと不思議な世界があるのだとしたら?

この人間界の混沌。それをもたらした、理論、感情、、我。エゴ。物質には限界があり、、もっと不思議な世界があるのだとしたら?、、すごいことが起こせる、不思議な世界が。。もし、そうだとしたら、恐ろしいことになると思いませんか?

 

限界のある物質の力も、人間のエゴ、感情ややりたいことから使うとこれほどの混沌を世界にもたらしている。さらに強い力、すごい力を手に同じ立ち位置、エゴ、感情、からその力を使ってしまう時、、どれだけの混沌を生み出してしまうのだろうか。スピ系、、巷に溢れる不思議な力を使うこと、、よく見極めなければなりません。

 

 

  • 自分は何の役にも立たないものであること

私が学んできたことは、、『すごい力は決して使ってはならない』、ということ。

 

自分が、自分の意図で、自分のやりたいことなど決してしないこと。施術の場では、、自然界、、に従うこと。超自然界で施術をするには、、『自分は役に立たないもの』、であることが大切だと思います。

 

ここで、バイオダイナミクスの創始者の先生からのおすすめであると聞いた本の抜粋を載せておきます。クリスチャンの本のようです。

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『静まりから生まれるもの、ヘンリ・ナウェン著』

独り静まる生活

- Our Life in Solitude

キリスト者として生きるということは、この世に属さずに、この世に生き るということです。こうした内なる自由は、独り静まる中で育まれます。 イエスは祈るために寂しい所に出て行かれました。それは、自分の持つ力はす べて与えられたものであること、自分が語る言葉もすべて父からのものであ わざ ること、また、自分がする業はすべて、自分ではなく、自分を遣わされた方 の働きであることを、さらに深く自覚するためでした。この独り静まる所で イエスは、失敗してもよい自由を与えられたのです。

独りきりになる所のない生活、つまり、静かな中心を持たない生活は、簡単に破滅的なものになってしまいます。自分が何者であるかを証明するもの として、自分の活動の結果だけにしがみついていると、わたしたちは物事に 執着するようになり、自分を守るために身構えるようになります。そして他の人を見る目が変わってきます。命の賜物を分かち合う友としてより、なるべく近づきたくない敵として見るようになるのです。

独り静まる中で、自分の執着心で凝り固まった幻想の正体をだんだんと見 ることができ、そして、本当の自分とは、自力で勝ち取ったりするものでは なく、与えられるものであることに目が開かれてきます。 独り静まる中で、こちらが口を開こうとする前に語ってくださる方、誰かを助けようと動こう とする前にわたしたちを癒してくださる方、他の人を解放しようとするずっ と前にわたしたちを解放してくださる方、そして、誰かを愛そうとするずっと前にわたしたちを愛してくださる方の声が聞こえるようになるのです。

この静まりの中でこそ、何を持っているかより、生きている自分の存在自体が大切であること、また、努力した結果より、わたしたち自身のほうがはるかに尊いことが分かってくるのです。独り静まる中で、わたしたちの命は、奪われないように守るべき所有物ではなく、他の人と分かち合うべき賜物であることに目が開かれてきます。わたしたちが語る癒しの言葉はわたしたち自身のものではなく、与えられたものであること、わたしたちが示すことのできる愛は、より偉大な愛の一部分であること、わたしたちの生み出す新しい命は、しがみつくべき所有物ではなく、受け取るべき贈り物であることが 分かってくるのが、この静まりにおいてなのです。

独り静まると、自分の価値とは、どれほど人の役に立つかではないと気づくようになります。このことについては、老子の教えにある、大工とその弟子の話に出てくる老木から多くのことを学べるでしょう。

ある大工とその弟子が、深い森の中を一緒に歩いていた。 ある所まで来ると、そこに本の巨大な、節だらけの、見事な樫の老木があった。 すると大工は弟子に、「この木はどうしてこんなに高く、大きく育ち、たくさんの節をつけた見事な老木になれたか分かるかね」と尋ねた。弟子 は師匠をじっと見て答えた。

「分かりません。なぜでしょうか」 大工は答えた。「それはだな、これが役に立たない木だったからだ。もし、この木が役立つものだったら、とっくの昔に切り倒されて、机とか 椅子になっていたことだろう。しかし、何の役にも立たなかったからこ そ、おまえがその木陰に座って憩うことのできる、これほどの高さの見 事な木になれたのだ」

独り静まる中でわたしたちも、自分はどれほど人の役に立つだろうかという思いにとらわれずに、のびのびと年を取ることができ、自分が計画したわけではないのに、何らかの奉仕を人にすることができるようになります。そして、この世―それが、父、母、子ども、職歴、功績、あるいは報酬であっても―に依存することが少なくなればなるほど、失わないようにと守るものも少なくなり、むしろ分かち合うことがたくさんある信仰の共同体を建て上げることができるようになるのです。なぜなら、信仰の共同体として、わたしたちはこの世を大切にはしても、決して過度に重視しないからです。 このような共同体では、自分自身を笑うことのできた教皇ヨハネと同じ心をわずかでも身につけられるでしょう。勲章で飾り立てたある政府の高官が教皇にこう尋ねました。「教皇さま、ヴァチカンで働いている人は何人ぐらいいるのですか」。しばらく考えてから教皇は答えました。「そうですね。半分ぐらいでしょうか」

信仰の共同体として、わたしたちは一生懸命働きますが、結果が思わしくなくても崩れてしまうことはありません。信仰の共同体として、わたしたちは、次のことを絶えず確認し合います。わたしたちがまったくの独りきりに なる所で、「恐れるな。あなたは受け入れられている」と語ってくださるお方の前において、ありのままの姿で、弱さを持った者たちの交わりを形成しているのだ、と。



〜編集中〜