ゼロになる

 


”治療”ってなんじゃ?というお話、からの〜。

 

どこかが痛い、悪い、問題がある。そのマイナスな状態からゼロにするより、ゼロからプラスになる、よりよく生きる、とか、向上する、より楽しく、すばらしい体に、わたしになる。そういう方に、興味がある。。??

 

(あれ?この話2度目かしら?)

 

ゼロになる。ゼロになるわたし。ゼロとは、、普通、ではなく、そこは、無限大。

 

どんな可能性もあるし、突き抜けた不思議の場でもある。プラスになる、、よりよくなる、、そういうのとは次元が違う。プラスになる、よりよくなる、、って、誰かに何かを付け加えられたもの。それは、邪魔。純粋な本来の姿ではない。

 

ゼロに向かうゼロに行く、、そこに無限がある。

そういう世界。

 

誰に何を付け加えられるのでもなく、、そこにバランスされ、、静かになっていく、、台風の目のように次の世界に突き抜ける。静かな、、前触れのない前触れ。そこでは神様に会えるかも?

 

 

 

セミナーに通ったり、知識をもらったり、生き方を指南されたり、、。そういうの、誰かに何かを付け加えられたり、自分で付け加えに行ってたりしますが、本来我々生き物はどんな風にデザインされてるんでしょーか?そもそも、神様の純粋な石がこの体の奥深く真ん中に流れてるとしたら?それに知性があり、我々を生かしているとしたら?夕日を見て、何かが直にわかるとき、、。

 

その源ところに、つながったら、もう、付け加える必要もなく、完全な純粋な意識がそこにある。

 

そこに行ったら?ということ。

 

たとえば、施術する時で言ったら、骨が曲がっているからまっすぐにする、だから、体は”正常”に機能するから治った。というやり方ではなくって、骨を形作っているおおもとの体の奥に流れる純粋な始まりが、閉じ込められたり歪められたり、病変により遮られたりすることなく、全てを通り抜けていくように現れてきた時、それに沿って、その流れに沿って骨はまっすぐになっていく。施術者の手が離れたその後も、その流れのままに、その流れの影響によって。

 

そういうやり方。

 

誰かが何かを付け加えて治すやり方と、癒しの力の流れに沿って自然のままに変わっていくというやり方。そこにすでにある癒しの道筋を邪魔することなくそのままに癒しの流れに従っていくやり方。

 

ゼロになるところにはソレがあるんですね。ソレとは、例えて言うなら、ソレ自体が癒す力を持った流れであったり、光であったり。もともとそこにある、そうなっている。誰にでもある癒しの、というか、生命の力。

 

じゃあ、”治療”っていうのは、一体なんなんでしょうか?

 

痛いところ、悪いところを治す。切り取ったり、埋めたり。そういうのが、現代の医療だとしたら?本当の、治療って、なんでしょうか??

 

私たちの基本的な姿勢は、、。

 

 

悪いところ、問題、痛み、、それも含めて、全体。全体として”健全”であるかどうか。痛み、問題、、それらは、それらで全体の健全を支えている支点。痛みって、問題って、なんでそこにあるんでしょうか?

 

もしかしたらそれは、全体を守るため、そこに置かれたのかもしれません。(そう考えています。)全体が崩壊しないように、外力やショック、感情的なものも含めて、全体が瓦解しないようにエネルギーを一点に集約して保持し、病変としてそこに作られた。作ったものは叡智、健全。健全により作られた歪み、病変。痛み、問題。

 

”問題”は、全体を支えている。ソレらを含め、全体。全体としての健全とみると?

痛みは、問題は、全体を支えている、それ以上広がらないようにそこにあるのかもしれない。ソレを外すと?無理に外すと、別の形で現れる。かもしれない。あるいは、全体が崩壊するかもしれない。それは、外して良いものかどうか。どう扱うのか。

 

『わからない』

 

わたしには、わからない。理論や理屈や思考、施術者にはわからない。相手の体の全てがお見通し?そんなことはできない。なにも、わからない。ただ、そこで対面し、触れるとき、、相手の体(?)から知らされる。その施術者とその受け手との、出会い。そこで、見えてくる、出会い。扱われる病変が、見せられる。次は、これ。それを、バランスし、深いところに流れる、癒しの光を、、現れるのを待つ。ただ、まつ。

 

相性によるのか、バックグラウンドによるのか、生きてきた歴史によるのか、、運命なのか、その出会いによって見せられるもの。もちろん、スキルによっても。

 

知らされる。わからない。まつ。知らされる。

 

そして、施術は進み、、終わりには均質な呼吸、、世界とハートは矛盾のない呼吸をする。

 

 

そういうやり方で、癒しの導きのままに、従い、、何も決めず、何も意図せず、流れに従って施術する時、、腕が痛いから腕をやる、とか、痺れがあるから痺れを取る、と言うようなやり方にはならない。

 

ひとつ、それは、全体の中の痛み、それを含めて全体としての健全、をみるとき。それを取り外そうと言う意図は、健全の癒しの流れの中ではうまく働かない。癒しの流れが自然とすると、ソレに対して、直そうと言う施術者の意図は、外部からの侵入、それに生命の癒しのシステムは、抵抗したり対処したりしなければならず、負担となる、邪魔になる。

 

ひとつ、それは、流れの中で今見せられた、、次に扱うべき、病変。その解消、、それが、直接そこ、問題として現れている箇所、ではないかもしれない。その前に扱われるべき病変、歪み。。その次、その次、、。いつかその順番が来るまで、しばらく、時がかかるかもしれない。あるいは、全然別のところを解消すると、、いつのまにか主訴である問題が解消していることもよくあること。

 

流れが治療する。代謝が起こり、、流れが治療する。

 

施術者はゼロになり、ゼロにある、ゼロに流れる生命力、癒しの力が働く。

 

痺れが治らないから手術する、、その前に解消すべきことがあるからかもしれない。もう少し、様子見てみてもいいんでない?手術する、ソレが必要なこともある。仮に、する必要がない手術だったとしても、それを僕が止めることはできないし、止めようとしても、止まらないものは止まらない。では、わたしは、ソレをも含めた全体、運命の全体の中で、その施術をしようではないか。

 

手術によって作られた歪み、負担、それを解消し、その先へ。

 

そのきっかけにより、このような珍しいタイプの施術に来るきっかけを得、その手術の部分を扱うと同時により根源的な病変の解消が同時に(意図することなく自然におこる)行われる。知らないところで、わからないところで、何かが、まわっている。生命と運命を司るものがあるのなら、、それは私の頭脳をはるか超えている。

 

ゼロの点、本来の運命。わからないところ、わからない、”知らない”ところで、何かが起こる。生命の癒しが、運命の癒しが起こるのならば、それは、私の頭脳の範囲では解決できない、知らないところで起こるはずのもの。

 

 

つづく。