背後にあるもの

転生」というタイトルで、文字を書いたのが気になっていて、なぜそんなこと書いたのかな。


後日記

 

なぜ『転生』、などと銘打ったのかな、、と。ひとは、、その「道」をゆき、、その自然現象の「背後」にある神をみて、そこで本当の仕事をし、死んでいく。オステオパシーもそうだし、そのほかの仕事もそうだと思います。

 

その個人の辿った智性は、叡智はどこにいくのか、、消えてしまう、途絶えてしまう。。(それはその人個人のもの、個人が所有しているものではなく、その人を通してどこかに繋がっている「静けさ」のようなもの。たとえ死んでもそれは残っている。というか個人に関係なく、それは初めからそこにあり、この世界に遍在している、、。その個人がそこに作り出したものではなく、その個人はそこに通じる入り口からそこにたどり着くことができたひと。その入り口、その静けさを知っているもの。)それを学びに、その場に行く。そこで、その神性は、この胸の内に宿る、あるいは、その方を通していただく。それが、わたしの道に。含まれるというのでも導くというのでもなく、はじめからそこにあったものの灯となる、、。灯がともされる、か。

 

わたしの先生は、「先人からいただいたその胸にそっとしまわれた、ラッピングされた贈り物が、、時が来れば、研鑽し経験を積みいつしか明らかになる時期がきたとき、その包み紙がそっと開かれる。あー、こんなことを仕込んでくれていたのね。種を蒔いていてくれたのね、」という。

 

そのひとの、、うちにあり、外側につながっている、静かな静寂。その流れがつながる先、、。そこに行き、それを”学ぶ”ということ。時間がない。それにつながるひとが去る、そのまえにお会いしたい。そんなことから、転生、などということを書いたのかもしれません。

 

 


背景にあるもの、、背景、とは。たとえば自然現象の背景というとき、その現象の構成要素を、そこに至るまでの現象の数々のことを言っているのではないです。

 

そこに物理的に物質的に、現れたそのもの、物質のことではなく、、そこに、この時間と空間に現れたそのモノを、みるとき、、そのものには、もっと静かな存在が、同時にそこにあり、それは、それと同義であり、それを感知することができます。身体感覚(例えば皮膚感覚など)で。そのことを「背景」と、たまに僕は表現しているかもしれません。。

 

何かの動画で、みたのですが、たしか、、。youtubeで。(見つけたらリンク貼り付けておきます。)志村ふくみさんの動画だったと思いますが、「仏像は飾るものではなく祈るもの、仏像が単に物質ではなく祈るものだとしたら、物質のその先には物質ではない何かがある、染色した糸がただの物質ではなくその先に何かあるのだとしたら、、」というような感じのことだったと思いますが、それは、ボディワークでも同じ(?)で、その物質の先には、静けさがあり、そこには、何か流れがあってどこかにつながっています。それは、うちにある神なのかもしれないし、遍在する意識かもしれません。

 

その静けさには癒しがあり、それ自体が癒す力を持っています。我々せ術者が治すのではない(そんなことはできない。)