日本

※エッセンスの中には聖地のフィールドのエネルギーを転写したものもあります。それらは、非売品です。出会いの中で、必要だと思われた方に無料でお渡しすることはありますが、商品として販売することはありません。

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※必要だと導かれた(直感的に)場合に無料でお渡しさせていただきます。(寄付はありがたくお受けさせていただきたいと思います。次のエッセンスづくりのための移動費や宿泊費、材料費などの一部にあて察せていただきます。)
※「ディーエッセンス」としてのセッションでは、そのボトルとご縁があるときには選んでいただけます。セッションでは、頭や気持ちなどの”あなたの希望”によって選ぶことはできません。それも導き(直感的)に従いますので、何が選ばれるかはコントロールできません。エゴではなくもっと深いところにある透明なあなたのハートの静けさから選んでいただけます。


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 天河大辨財天社への旅 2024.9月

  • 風の石 エッセンス

天河弁財天社の朝拝に参加した後、朝の空気のなか、不思議な場所に出会い風と石の前にしばらく時を過ごしました。水の記憶。伝えること、メッセージ(?)を感じました。

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湧き水を汲み、橋を渡った少し山を登ると拓けたところに出る。ただの人工的な更地、広い敷地、遠くにユンボが見える。敷地を囲うように、赤い岩がたくさん。結界がはられていて、片隅には大きな岩が。木の碑がいっぽん。なに書いてあるかよくわからない。朝来たその場所に座る。もうお昼で太陽が強く、暑い。朝の雰囲気の静かな涼しさはもうないけれど、まだそこにはあの記憶がそのままある。湧き水をいれた、ガラス瓶を蓋を開けてそこに置く。しばらくして、できた。ウォッカのミッドラインを通して浄化して、お水を半分に割る。エッセンスができた。

風の石(名称仮)

まだ朝、東京は酷暑だけれどこちらは、少し肌寒いくらい。天河大辨財天社の朝拝に出て、そのあとに、禊殿に行こうと、行ってみると人がいて、真ん中に立っていて自分の時間を過ごしている模様。邪魔しないように、、待つ。。そういえば、昨日お参りに来た時に橋の向こうから人が歩いてきていた。あの山の方に何かあるのかしら??歩いて行ってみると、拓けた場所に岩がたくさん。隅の方には大きな岩が祀られている。朝拝のあとだから、たぶん、8時くらい?まだ太陽は山の向こう、そろそろ陽が差し始めている。風が気持ちがいい、この空間はすごく涼やかでとても気持ちがいい。柔らかな不思議な風が、つねに少し吹いている。結界の張られた岩の前に座る。なぜ、今回天川に来たのか?今回の目的の山は、登らないことに決めた。そもそも、何しに来たのか?何かを求めている?なんのために、なにしてる?日々からのつながり、、。わたしはなんのために何をするのか?この手の中にある、わたしの中にある、能力、役割。この普通の人が知覚できない、セッションの場ではわかる見える流れと導き、自分の力を使わない、能力を、意図を一切使うことのない、施術。それができる、なのに、どのようにこの世界に表すと言うのか??岩の前に座り、もやもやのあたま。すると、やまの向こうからちょうど木の柱の上から太陽が差してきた。風がそよぐ。ふと、”伝えること”、”与えること”、というクリアな意識にシフトした。伝える、与える。クリア。。少し時間が経つと忘れてしまうような透明な感覚。なんだったかな、それは、”体の水が記憶する”ということ、もっというと、バイオエナジェティック・オステオパシーでいうところの、この体、肉体、エーテル体のさらにその外側に広がるフィールド、フルーイドボディ。液の体。そこに、記憶される。(いや、正確にはそこではないか。。)

何かをするのではない。何かを”伝えよう”とするのではない。与え”よう”とするのではない。なにもない。ただ、自然と起こること。自然と、この体の水に記憶された、その聖なるフィールドの振動数が、何も意図しない時に透明に、伝わる。そのように、かんながらたまちはえませ、そのように。水の流れるままに、そのように。

わたしは何もしない、わたしには何もできない。何もしない。何もわたしを混ぜない。一切、想いや気持ちを混ぜない、何もないこと。透明であること。わたしのエネルギーを少しも一滴も混ぜないこと。混ぜない、純粋な、その場にあるそのものの、聖なるエネルギーを。そのまま、そして、それを伝えようともしない、伝えようと意図しない。自然と、その聖なるエネルギーが、その働きの純粋な働きのままに、わたしにはわからないところで、いっさいわからないように、振動していく。ただ、それだけ。わたしは何者でもない、なにもない、だれでもないこと。

一般にいう”エネルギー”というワードには誤解がある。一般にいうエネルギーというのは、エネルギーを受け取って、それを与える、というような文脈で使われるそれは、なにかザワザワ・ギラギラが混ざっている、眩しく目を射るようなザラザラしたもの、そのエネルギーは、だいぶ表層の振動数であり、本質の透明に何かが加えられて混ざっている。それは、不純物であり本来ないもの、それは、意図。ひとの、意図、がはいっている。何かをしようと、与えようと、助けよう、と。意図のない、ただのフィールドの静けさ。そのただの静けさに、満ちている、完全性、なにも失われず何も欠けていないもの、それが聖なるもの、それをエネルギーと言うのなら、一般に言うエネルギーは人が使う、人が利用する、ひとが得する、人の我のために利用する、何かしてあげたい、なにかなにかなにか、、意図が混ざっている。それは、方向性を限定し、透明性を不純物で混ぜており、流れを妨げ、どこかで矛盾が生じる。取り引きになっている。意図を離れ、我を離れ、何もないところに行く。そこは、満ちている、誰でもなんでもないところ。静けさ。

聖なるものは聖なるもののままに、そのままに。なにも意図を混ぜないこと。

このエッセンスは、バイオエナジェティック・オステオパシーは、意図を持たない。ただ聖なるものに触れ、何もしようとせず、何もせず、自然と何かが(純粋なはじめからそこにあったものが、その方向性もその流れもそれ自体に備わる叡智の進むままに。水の流れるままに、そのように、、。)伝わる。伝え手は透明、わたしは”いない”。それは、何かを伝えようとして伝えるのではない、ただ聖なる静けさに、フィールドの静けさに触れるだけ。エッセンスを通して触れる。施術を通して触れる。同じことをしている。

聖なる振動数に、触れる。

ただそれだけ。
何かを起こそうとはしない、何かを治そうとはしない、何かを助けようともしない。ただ、聖なるフィールドに触れる、自然と起こることが起こる。自分が変わる。浄化がおこる。何かが変わる。 それは、変えられたり、別のものになったりするのではない、自分の本来の、つまり、エゴで隠れている本質が現れてくる、はじめにそこにあったもの。

そのように、フィールドから教えられた。
バイオエナジェティック・オステオパシーとはそういうもの。同じ方法で作ったのがエッセンス。
今回の天川弁財天と大峯山への旅では、このエッセンスのみ、結局作られたのはこの一つのみでした。

※朝の空気のそのものではなく、お昼に作られたエッセンスですが、その朝の記憶はその空間にありました。本当の純粋そのものの空間は朝作るのが良いかもしれませんが、今回はこのタイミングで作られました。それは、水の記憶。水への記憶。われわれは、70%が水。分子でいうと我々の体の分子は99%は水分子でできているらしい。水の体を持っている。体に記憶されたもの。それは、わたしの体のフィールド、液の体に記憶されていると思います。そのように、ひとはフィールドに、液の体に、体の水に、記憶していく。それを、他者と分かち合う。出会い、意図のないところで、自然と、伝わっていく。Pale Blue Dot.というドキュメンタリー映画があります。同じようなことを言っていたと思います。天河弁財天も出てきてましたよ。

この不思議な赤い岩の場所について、宮司さんに聞いてみたところ(わたしの記憶と理解が正しいかわかりませんが)ここは昔、タニグチ神社という跡地であったと伝わる場所でした。が、近年の土砂崩れで埋まったため、整地したところ、ごろごろと不思議な赤い岩がたくさん出てきた。これは?ということで、名誉宮司さんが大切な場所かもしれないと、あのように祀っているようです。(わたしの記憶が間違っていたらすみません。)この地に特に何か(神様)を祀っているということはないようですが、岩がたくさん並んでいて、いくつかは結界がはられ祀られています。

 

 大峯山への旅 2024.8月

  • 大峯山 赤い祠 エッセンス

女人禁制の山、大峯山。修験道の山です。女人結界門から3〜4時間歩き山頂へ。大峯山寺というお寺があります。さらに、1時間半ほど歩き奥の院という場所へ。

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大峯山寺のさらに奥、、1時間ほど進む。人間の世界から獣の世界へ、、さらにもっと別の世界を進む。大きな岩がある、磐座のような、、その上に木が生えている。かつて何らかの場所だったのだろう。3つほど通り過ぎ、、さらに桁違いの大岩。まだ、着かない。あきらめて三度引き返す。いや、この形跡は修験道のなんらか。道は合っている。引き返し進む。人間の気配がない。さすがにもうないか。間違えたか。。引き返す。いや、まだこの先か、、もう一度進む。ずいぶん来た。引き返さないと、、もう獣の時間に入る頃に差し掛かるだろう。この先にはない、、唯一、分かれ道があったあの場所へ、確実にこちらと思ったのだが。引き返し、あの道をゆこう。はじめの分岐へ。引き返す。その道をゆく。・・これは、違う。人が通った形跡が、ない。倒木だらけ。もう引き返せない。進むしかない。たぶん、この道はもう一つの道に合流するハズ。そして、やがて元の道に合流した。一安心。となると、目的地はこの先に進む以外にない。山は3時を過ぎる頃姿を急に変える。人の時間は終わり、獣の時間になる。限界の時間は13時半。まだ、先は見えない。たどり着けるか?さらに進む、、桁違いの大岩。この辺り?少し斜面を登ってみようか?いや、何もない。少し進む、大岩の裏側へ、大きな木、ウロ。なんかヤバそうな、、スズメバチとかいないだろうな。。大岩を回り込む、、と!急に視界が拓ける。人の手の入った、清浄な地。しずか、清らか。とうとう目的地に辿り着いた。そこの赤い祠の前で作った。たぶん、役行者ゆかりの地。赤い祠の前で作る、と水とウォッカをほとんど使った。(赤い祠のエッセンスはお助け水を使った。)

 

  • 大峯山 三角の石 エッセンス

すこし歩き、ここだったか!と、三角の石のところでここがエッセンスを作るべき場所だと気がつく。

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残りの水を全て使った。ウォッカは3分の1の割合となった。水はこの山の頂上で得る予定だったが、忘れてここまで来てしまった。山のまだ3分の1ほどのところにある、湧き水『お助け水』を新品の空きのペットボトルにいれ、そのまま持っていた。残り少ない、水。たまたま持っていた水。お助け水を使った。ここでお助け水は使い切る。

で、天気悪くなってきた。ゴロゴロ、どしゃ降り〜。雨宿り?けど、待ってると時間が人間の時間ではなくなるので、待たずに歩く。 ゴロゴロ〜。 そして、ゴロゴロのなかを歩いて帰る。 靴もズボンも思ったより濡れない、 (いうても、森の中だから、雨の直撃はそれほどでもない。) だいぶんお寺に近くなった頃、下草の中歩いている、草が濡れてて、靴も靴下もズボンもびしょびしょ。雨宿りしててもどっちにしても濡れてたね。 雷はまだ過ぎない、雨は少し弱まる。 がさっ!! 鹿が逃げていく。(びっくりした〜!)熊でなくてよかった。熊よけの鈴、麓の荷物に置いてきてしまった。 お寺に着くと、3時前。奥の院からは45分くらいか。お寺出発から3時間弱。宿坊に戻り、雷が過ぎるのを待ち、(ブレーカー落としておくらしい)お風呂♡ ありがたい〜。 ご飯食べて、部屋に。 もう靴下も靴もズボンも白衣もずぶ濡れ。 どこもいく気しないしもう寝る。夕方6時くらい。

 

  • 大峯山 裏の岩の土の上 エッセンス

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翌朝、空は晴れてて だんだん赤くなってくる。日の出! 日の出を見たいと、外へ。 靴がびちゃびちゃや〜。だから靴下もどうせ濡れるしびちゃびちゃの履く。 白衣とズボンは思ったより乾いてる。 急げ〜。 山頂のお寺へ。 周りを木に囲まれてるからか、日の出の気配なし。 看板、お花畑。 そっちに少し登ると、そこが山頂らしく、 ひらけている。 花はなくて、笹みたいな低いやつばかり。 この先には行場の岩があるのか〜。 こちらにも日の出の気配なし。 戻る。 昨日宿のお兄さんに聞いたところによると、この奥には湧き水があるらしい。護摩焚くところの奥をずーっと進むと40分くらい。 。。こっち? でも、こっちは昨日の奥の院の方に行くから、、。 もしかして、あの奥の院のところには湧き水もあるのかも。 もう、そんなに時間を使うことも、移動する気持ちもない、湧き水は諦めるか。 ネット情報では、なにか目に良い湧き水が像の前にある、みたいなのを見た覚えがあって、それを聞いてみたんだけど。奥の院なのかな?流石にもうあそこまでは行けない。諦める。 お寺に戻り、その裏にも道があると言っていたな宿のお兄さん。 行ってみる。ん?右手に、像が。 そして、消えかけた看板には『目洗い行者尊』と読める。その下には、窪みがあって水が溜まってる。流れはなく、水たまり。これはさすがに、、。綺麗そでもない。 この水を湧き水と思って、当てにしてたけど、山を登る途中の『お助け水』汲んでおいてよかった。水は途中で(口つけずに)結構飲んでしまい、昨日のエッセンス作りで使い果たした。 ん!? なんだ、これは。よくみたら、柄杓と、、平べったいやつは網みたい。フィルターか。これで濾して使ってね、ということか。ということは、たぶん、この水たまりの水をいただくのが目洗いの水ということなのね。 。。 裏の道を、すこし登ってみる。岩の道。 雰囲気がいい感じ。まだ夜明けということもあるのか。 対面の山から、雲の間を縫って周りの木の間から日が差してきた。 日の出。 写真や動画ではぜんぜんうまく撮れないな、、。 少し手を合わせてみたりして。 上の雲に隠れた頃、帰る。岩場を歩いて、、。ふと、ここやん。 と、エッセンスを作ろう。水は、あの目洗いの水。 道具がないので、宿に戻り、、急いで戻る。 日の出から、少し時間が経ち、場もすこし変わっている。 ここや、と思ったところから移動していて、ここに。 岩ではなく土と草の上。 少し手で持って眼前に。陽が当たる。 できた気がした。 ここはいい。清浄な。 残りのウォッカはちょっと。エッセンスの水を、1:1になるように、、。じゃ!と、1:2くらいに。ま、いいか。 ちょっと欲張ったため、水があまる。持ち帰って、途中でお助け水を入れてた空きのペットボトルに。 役目も、目的も果たした。 そろそろ下山しよう。最後に、お寺にお参りに。

  • 大峯山 空白の岩場 雨水と月 エッセンス

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今年は秘仏である蔵王大権現が公開されている。左手に。そして、右手には役行者。 最後に、一礼して、蔵王大権現の前の出入り口から去ろうとすると、、気持ちよくキリよく去れる感じではない。(お坊さんがこのタイミングでげって。ゲップした?もー。)下山の前にまだ、なんかやることあるのかしら? なんか宿に直接戻るのもなんやし、お花畑のほう行ってから帰ろう。 そういえば、この先には行場『岩』があるんやね、いってみるか。 切り立った崖の岩場、このでの出来事は、たぶん、個人的なものなのか。秘密にしておくものなのかもしれない。 『空白』 急いで引き返し、宿。その『水』をいれるため、10mlのスポイトを(目洗いの水をいれていた)空にして、持っていく。靴を履いているとちゃりーん。(このときだったか、それとも目洗いの水でエッセンスを作りに戻る時だった?)お金落とした?五円玉??見当たらない。行くか。 でも、そのときには、もう終わり。完了している。という感じがしていて、引き返すことはない、と思ったんだけど、引き返してその『水』を10ml持ち帰る。でも、もう時間が過ぎていて、場が変わっている。水も変わっているだろう。10mlだけ持ち帰り。帰る。 首から、ダライ・ラマのブレッシングした紐をぶら下げていて、それをポケットに入れたり、首から下げたり。それに、チベット22年くらい前のチベットで買った、キーホルダーみたいなヴァジュラ、五鈷杵も山に登る時、あ、首から下げたりもできるな、とその紐にくっつけてた。 五鈷杵がない! どこかで落とした。この山のどこかに、おいてくるためにチベットからきたのかしら?宿に帰って部屋を探してもない。 そんなこんなで、その『水』はないことにしたほうがいいのか。 そして、下山。 靴履いて、上履きを棚に戻す。何かを踏んだ。 五鈷杵! あのちゃりーんていう音はこの五鈷杵の音だったのか。 今思うと、ちゃりーんていうたのは、正確にいつだったのか?目洗いの水でエッセンスを作りに戻ろうとする時だったのか、それとも、空白の岩場に戻る時だったのか、どっちかわからない。 もう岩場にもどることはない、のサインだった?

  • 大峯山 手の中の器 エッセンス

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山の入り口から3分の1くらいのところに、『お助け水』という湧き水がある。登りのとき、この水すごー!と思ったので帰りに汲んで帰ろう。と、でも入れ物がない。目洗いの水のエッセンスの余りを入れていたペットボトル。 他に入れ物はない、、エッセンスを作るためのガラスボウルがひとつ、蓋はない。 ペットボトルにいれていた目洗いの水をガラスボウルへ移す。 空けたペットボトルをお助け水で満たし、ガラスボウルを手で持ってこぼさないように1時間ほど山道を下山。 まあまあ、こぼした。 麓のお食事とかお土産とかの建物で、市販のミネラルウォーターを買って空けそれに、移し入れた。 特に行はしなかったし、裏の行場と呼ばれるお寺の裏に続く行場には今回は行かなかった。けど、お水持ってこぼさないように下山したり、奥の院を彷徨ったり、自家製の行した感じ😑 そう、あの奥の院の道をさらにずーっといくと、熊野に通じるらしい。 下山の途中に亀の岩みたいな名前、の岩があってそれもどこかに通じてる(どこか忘れた)らしく、触ってみたらすごかった。 。。 というのが、旅の思い出。少し時間経ってるから臨場感はないけれど。 行く前と、だいぶ体変わった。キンニクツウ。 東京いるより、ウロウロ歩いていたい〜。

  • 大峯山 お助け水 お水

 熊野三山への旅

  • 熊野 エッセンス

熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)の奥宮、玉置神社から車でけっこう行ったところ、公共交通機関のない場所。玉置龍神水の湧き水でそのフィールドのエネルギーを転写したエッセンス(ソースフィールド)です。バイオエナジェティックの仲間3人で、作りに行ってきました。太陽のエッセンス。

 

 鞍馬寺

  • 鞍馬寺ウエサク祭 お水

毎年5月の満月は、ウエサクというお祭りがヒマラヤで行われています。鞍馬山でも毎年5月の満月にウエサクのお祭りがあります。ずーっと以前は夜通し続けられ朝まで儀式をしていたようですが、現在では3時間ほどでしょうか。

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そのウエサクに参加すると、儀式の最後に御神水を分けていただけます。儀式の間、満月の光に当てられた御神水、、2023年は曇りでした。小さなコップにほんのちょっとずつ、参加者数百人??に分けられその場で飲んでもいいし、持ち帰っても良い。わたしはその場ではほんの2滴ほど飲み、あとは小さな瓶を持っていたので持ち帰ってきました。


〜『すべておまかせ 信楽香仁』から抜粋〜

 鞍馬山では五月の満月の日に「ウエサク祭」という行事を行っています。
 一般的に満月の日には、サンゴの産卵や、卵から孵った幼生を海に帰すカニがいたり、地震や火山活動にも関係しているという説もあるそうで、良きにつけ悪しきにつけ、エネルギーが高くなると言われています。中でも、五月の満月が最もパワーが大きいそうです。
その五月の満月の日に、鞍馬寺では室町時代からお祭りを行っていました。当時は、お水を入れた器に満月の光を映して、みんなでそのお水をいただくという祭儀で、密教的な色合いが濃く、僧侶のみで行われていました。

 ところが、お釈迦様の誕生と、お悟りを開かれたときと、お涅槃に入られたヴァイシャーカ(五月)の第一満月の夜に、東南アジアの仏教諸国ではお祭りを行っていること、ヒマラヤでは仏教とキリスト教など、宗教の垣根を超えてみんなでお祈りをしていることを知り、昭和二十九年からは鞍馬寺も「ウエサク祭」として一般に公開することを決めたのです。

 一般的にお寺や神社にお参りするときには、たいてい自分の願いを叶えるためや、ご先祖さまの供養を目的にしていることがほとんどでしょう。しかし、ウエサク祭は一人ひとり蝋燭に火を灯し、ご本尊に捧げてもらうことで、「生かされていること」や「めぐるいのち」に気づいていただきたいという願いが込められています。また、すべてのものを生かしている自然の働きが、ご自分の中にも宿っているということにも気づいていただけたら、と願っているのです。

 人ひとりの中にめぐるいのちがあるということ。それに気づくと、自然と生き方が変わって来ます。
 今までよりも周りの人を大事にできるようになることもあるでしょう。他者だけとは限りません。自然やもの、あるいは自分にだって優しくなれるのではないでしょうか。

 

夜中2時半ごろまで、いました。山の上なので風が冷たくめちゃ寒い〜!

 

  • 鞍馬山の御神木 チンキ

鞍馬山の御神木は、どうやら何十年か前の台風で倒れたようです。たぶん、その御神木で作られた神杉守というお守りを本堂で買うことができます。一年ごとに返す必要はない永代のお守りとのことです。たぶん、すごい。神杉守の他に、大鋸屑のような感じで御神木を売ってます。焚いて浄化に使ってもいいし、箪笥の隅に入れておいてもいいし、とのことでした。その御神木でチンキを作ってみました。

 


 埼玉県、長野県

  • 山桜 フラワーエッセンス

埼玉県の弓立山で仲間達4人で作りました。ヤマザクラのフラワーエッセンスです。弓立山は水晶を多く含む岩でできた山、岩の上で作りました。儀式のように、、作ってる最中は誰も通りかかりません。3〜4時間ほど、太陽光に当てて近くで汲んだ湧き水にお花のエネルギーを転写しました。

 

  • 山桜(丸) フラワーエッセンス

もうひとつ、ヤマザクラの丸っこい種類のフラワーエッセンスも弓立山で作りました。また全然違うフラワーエッセンスになりました。

 

  • サンショウバラ フラワーエッセンス

日本古来のバラらしい。長野県の山奥の川のそば、仲間と3人で作りました。太陽光に当てて数時間かけて作った、フラワーエッセンスです。