オステオパシー

私の施術や世界観の根底にはオステオパシーのバイオダイナミクスの学びがあります。その世界観をいくら書いてもよくわからない、かもしれません。『いのちの輝き』フルフォード著の第7章からオステオパシーの世界を引用してみました。


『いのちの輝き ロバート・c・フルフォード著』から抜粋

p184

七章

霊性を高める

このところ霊性について語られることが多くなったが、霊性はおおかたの人にとって、まだ漠然とした謎のままにとどまっている。以下は、わたしが患者にアドバイスしていることをまとめたものである。心身の癒しを助けるために、患者には自分の霊性について理解してもらうことにしている。からだ・こころ・たましいの三つの側面のバランスがとれてこそ、その人の潜在力が発揮されるからだ。

人間の三つのからだ

「人間は三つの存在が一体となってはじめて完成する。第一は肉体、つまり物質的な身体だ。第二は霊的な存在、第三は精神的な存在で、これがすべての生物的な運動や物質的な形態をはるかにしのいでいる。.・このように、われわれが望ましい結果を得るには、その三つをほどよく兼ねそなえ、自然の真理と調和して生きなければならない」ーアンドルー・テイラー・スティル

オステオパシーの思想は、スティル博士がいっているように、人間のなかに三つのからだを認めている。ひとつは霊的なからだ、もうひとつは精神的なからだ、三番目は肉体である。スティル博士はそのことにかんしてじゅうぶん納得できるほどのことばを残していないので、わたしは人生の多くをその探究に費やすことになった。

 

いまのところ(こうした探究は果てしがないので)、オステオパシーの思想と東洋思想、とくにタオイズム(道家思想)との結合がわたしの思想の基礎になっている。霊性とは不完全な世界にあって平和と幸福を見いだす能力のことだといっていい。それはまた、自己のパーソナリティの不完全さを理解し、それをそのまま受容することでもある。

 

理解し、受容したときのこころのやすらぎから、創造性と利他的に生きる能力が生まれてくる。からだのこの霊的な側面は見ることも聞くこともできないが、感得することはできる。


信仰・許し・やすらぎ・愛・美・幸福・喜び・悦惚などが見えなくても感得できるのと同じである。霊的なからだは三つの部分からできている。それはわれわれの意識・直観・コミュニケーションである。意識のおかげで、われわれはこの世に生存しつづけることができる。生きる途上で、なにがよく、なにが悪いかを教えてくれるのも意識である。

 

たましいからこの意識エネルギーを受けとれなくなると、われわれは昏睡状態におちいる。直観は霊的な側面に直接アクセスする、こころのサイキック(心霊的)な部分だ。残念ながら、そこに直接アクセスできる人はきわめて少ない。直観は想念の宝石のようなものであり、希少価値がある。

 

しかし、ちょっとした直観なら、たいがいの人がしょっちゅう経験している。たとえば、はじめて会った人と話をした帰りに、「あの人の声には誠実さがある」などと思ったことはないだろうか?声を構成する「音」は物質界の一部であり、五感で感知できるが、「誠実さ」は直観でしか知ることができない、見えない世界の一部である。コミュニケーションは自分と自分のたましいとのあいだに起こる。多くの人は自分の行為によって、想念パターンのなかにこの霊性がはいりこもうとするのを邪魔しているが、じつはどんな人にも霊的なからだのこの部分にアクセスできる能力はそなわっている。

 

霊性とは本来われわれを、創造の背後にあるさまざまな力、すなわち愛のエネルギーや叡知のエネルギーとの統合へとみちびいてくれるものなのだ。

 

不幸にしてわたしは、宗教団体に霊性があることが証明された例を知らない。霊性とはもっぱら、目覚めつつある個人の意識とむすびつくものであり、その経験がその人をより思慮深く、より親切に、より愛ある人にする動機にはなっても、宗教団体にはいる動機になるものではない。

 

現代の科学が霊性という考えそのものを否定していることはあきらかだ。だが、現代的であり、かつ霊的であることは両立が可能である。事実、科学者が人間のエネルギー変換について実験し、立証しつつある現在、霊性はあきらかに復活しはじめている。もしかしたら、われわれはいま、イエズス派のフランス人思想家、ピエール・テイヤール・ドゥシャルダンが予言した、あの光輝ある啓示に向かって歩んでいるのかもしれない。

 

「ある者たちはいう。風力や波力、潮力や重力を完全に制御することを学んだら、われわれは神のために、愛のエネルギーを利用するようになるだろう。そのとき、われわれは史上二番目の火を発見することになる」

精神的なからだのはたらきとはこころの作用のことであり、その任務はいのちという偉大なエンジンを賢く管理することにある。こころと肉体はたえず情報を交換しているが、そのコミュニケーションの大部分は無意識のレベルでおこなわれている。

 

こころとは肉体にその目的を遂げさせる力のことでもある。こころは肉体をとりまく空間にも存在している。それは脳ではなく、脳を形成する力である。精神的なからだには欲望と意思が存在する。欲望はときに抗しがたい力となり、たいがいは物質 ー あたらしい家、かっこいい車、ありあまるカネ ー にひきつけられる。

 

あさましい欲望にひきずられ、手あたりしだいに所有物をふやそうとしている人のなんと多いことか。街を歩いていても、空虚でよるべのない表情を浮かべた人をよく見かける。その大多数はカネがないからではない。ものはなんでも所有しているが、肝心のたましいを失っているからだ。かれらは自分の欲望の産物であり、うつろな目つきでショーウインドーをながめている。

 

欲望はたえず意思のチェックを受けている。霊性を高めるためにいちばんいい方法は、できるかぎり完全な人間になろうとする意思の力を利用することだ。わたしは患者にこの欲望と意思のパターンについていい聞かせる。そして、行動をあらためた患者がそれ以来、病気から解放されたということも、たまにはある。

 

たとえば、かなり以前の話になるが、ベトナム戦争から帰還した男がこころの問題を訴えてやってきたことがある。感情の過剰反応に悩まされ、からだにも神経症の症状がでていた。軍医には「治らない」といわれていた。そこでわたしは欲望と意思の関係について話し、その軍医がかれのあたまのなかに「病気である」という考えを吹きこんだのであり、その結果、かれが「病気でありつづけたい」という欲望を育んだのだと説き聞かせた。

 

「だが、きみにはまだ、からだのなかに生命力がある」とわたしはいった。「つまり、その欲望を克服する意思もあるということだ」そして手技をほどこし、呼吸法をやらせて、からだからその感情パターンをとり除いた。男は意思にしたがうことを選び、それ以来、症状は再発しなくなった。

 

もうひとつ、物質的なからだ、つまり肉体がある。それをつうじて自分を表現するための装置だ。現代医学は肉体にいくつかのシステムを認めている。循環器系、消化器系、自律神経系、免疫系などだ。

スティル博士はこの物質的なからだを「偉大な機械」と呼んでいた。その機械にはエンジンである心臓、換気扇とふるいである肺、蓄電池である脳などが組みこまれている。物質的なからだ全体はまた、おそろしく複雑な化学工場でもあり、こころだけがそのはたらきを感知することができる。この機械はいのちという見えない力によって作動している。それは自己創造・自己発展・自己調整・自己修復・自己回復・自己維持・自己推進の能力をそなえている。

 

すべての物質と同じく、このからだも究極的には光という電磁波でできている。それは部屋をあかるくし、テレビに映像をうつしているものと同じ電磁波であり、からだは電磁的なエネルギー場による複雑なネットワークで包囲されている。それが生命場と呼ばれるものである。物質的なからだには理知の力と本能の力がある。意思が動物的な本能に支配されたときは欲望への道をたどり、理知の力に支配されたときは霊性への道をたどることになる。


霊性の発見

年齢・人種・国籍を問わず、地上にいるすべての人は完全に純粋な存在である。だれしもが同じひとつの本源からやってくるエネルギーを受けているからだ。

その純粋で霊的な本来の姿のそばにいつづける能力を「善」といい、善はいつも目の前にあり、だれもがつねにアクセスすることができる。その一方、「悪」というものはもともと存在するものではない。にもかかわらず、悪は起こりうる。純粋で、いのちをあたえる宇宙エネルギーの流れをブロックし、自己の存在から遠ざかるとき、人は悪になる。

 

つまり、悪とは霊的な力の欠如のことなのだ。アドルフヒトラーは、その普遍的な純粋性とのつながりを断ちきって、こころの欲望に支配されることを選んだときに悪になった。純粋性はつねにかれのなかに存在していた ー 宇宙の設計によって、だれのなかにもそれがある ー が、かれはこころとあたまのあいだでおこなわれているコミュニケーションをブロックしてしまったのだ。

 

事実上、社会のあらゆる領域で、自然の純粋性との断絶が目につく。企業にも、人間関係にも、政治にも、宗教にも、マスコミにもそれが見られる。都市にも、郊外にも、農漁村にも見られる。

 

作家で思想家のウォルター・ラッセルは、われわれの時代を理解するのに役立つ、ある隠除的なイメージを提示してくれた。紙のうえに水平に一本の線をひき、その中央にしるしをつける。そこはわれわれのいのちの中間点をあらわす。中間点で二分された線の一方は肯定的なエネルギー、つまりいのちの霊的な側面をあらわし、他方は否定的なエネルギーをあらわす。

 

すべては線上に吊りさげられた振り子の位置と中間点との関係によってきまる。ほとんどの人は、振り子がたえずゆれていて、じっとしていることがない。怒りのあまり怒鳴ったり、だれかをなぐりたくなるときもあれば、羨望の気持ちをいだくときもある。たいがいの場合は、その気持ちをおさえて、振り子を肯定的な方向にゆりもどすことができる。否定的な方向に生じた想念を肯定的な方向に振りかえてバランスをとっているのだ。

 

その隠喩は個人だけではなく、種としての人間にもあてはまる。今世紀の初期から、振り子はずっと否定的な方向にかたよっていた。しかし、振り子はいま肯定的な方向に移動しつつあり、われわれは遠からず、よりよいほうにわれわれをみちびくような社会変革が起こるのを目撃することになるだろう。その点では、わたしはきわめて楽観的である。

 

目をこらせば、すでにその移動がはじまっているのがわかるはずだ。たとえば先週の日|曜日、わたしの街の教会でひとりの牧師がすばらしい礼拝をおこなった。かなり長い時間をかけて、愛する息子がゲイ(同性愛)であることを堂々と告白したのである。賭けてもいいが、五年前なら、かれはあえてその話題にふれようとはしなかったはずだ。テレビ番組にも変化の徴候を見つけることがある。つい最近、若手の俳優が聖書をビデオ化して、子どもたちが家で見られるような作品をつくるという計画をテレビで発表した。計画に協力するロデューサーがいないので、その俳優は自力で資金を調達したということだった。

 

じつをいえば、わたしがいちばん希望を託しているのは、こうした民間の手によるあたらしい幼児教育なのだ。子どもたちに豊かなこころが育まれたら、この国の将来はあかるい。いまの若者よりもっとつつましい若者が育っていく。子どもたちの未来は社会の未来と直結している。社会をつくっていくのは、いまの子どもたちなのだ。

 

もちろん、社会が望ましい方向に変わるためのいちばん確実な道は、われわれひとりひとりが自己の霊的な側面とつながりをもつことであるのはいうまでもない。霊的な側面を見つける方法はいくらでもある。だが、その前に、自分の人生の究極の目的を見つけなければならない。では、人生の目的とはなにか?わたしには答えられない。それを見つけることが、その人の一生をかけた課題なのだから、わたしも自分の目的なら答えられる。

 

それは若いころから、ヒーラーとして、またオステオバシー医としての技量を磨くということだった。おそらくわたしにとって、医学校に行けなかったという経験は、それを見つけるために必要だったのだろう。その経験がわたしを正しい道にみちびいてくれたのだ自分の目的を見つけることがそんなに重要なのか?わたしにいわせれば、それ以上に重要なことはほかにないほどだ。

 

目的を見つけるためには、なにかを捨てなくてはならないかもしれない。捨てるのは、それまで人類の福祉に貢献してきた大切なものかもしれない。しかし、それでいいのだ。こころから満たされた思いで人生を終えるには、目的を見つけ、その目的を果たすしかない。人が目的を果たすとき、目的がその人を完成にみちびいてくれる。

 

子どもや青年にそれを理解させることができたら、どんなにいいだろう。われわれはかれらに、楽しく幸福に生きろとはげます。しかし、この世の喜びと幸福の多くが著財からではなく、他者にあたえることから生まれるものであることを、われわれは見逃しているのである。

 

では、目的を果たさなかったら、目的を見つけようともしなかったらどうなるか?無目的な人生をおくった人がどうなるかを見とどけたかったら、その人の臨終に立ち会えばいい。前にものべたように、わたしはそんな人たちの臨終に何度となく立ち会ってきた。かれらの死は格闘である。その最期は、両手で空中をむなしくつかみ、なにかがぬけだしていくのを追うかのように見える。まるで、これさえつかんでいればだいじょうぶだと自分にいい聞かせているかのようである。その苦闘のきまを、充実した人生をおくった人の死とくらべてみればいい。

 

かれらはおだやかに目を閉じ、しのび寄る死を受けいれ、やがてなにもかもが終わる。その顔に浮かぶ澄みきった表情がすべてを語っている。

 

目的をもちたいのだが、生きるのに精一杯でそれを見つける余裕がない、とこほしている人が多い。だが、遅すぎるということはないし、必要な情報はどこにでもある。おまえの場合は運がよかったのだと人はいうかもしれない。たしかにわたしは、なにかあたらしいことを学ぶ必要が生じるたびに、だれかが必要な情報をあたえてくれた。

 

しかし、それはおそらく、めずらしいことではない。人はものの世界に夢中になりすぎていて、じつは、見る目のある人にとっては、この世界が知恵に満ちているものであることに気づかないだけなのだ。

 

目的を見つけること以外に、霊性に近づく方法はなにか?横断歩道をわたる弱者に手を貸し、必要としている人にバスの座席をゆずることだ。無条件で、すすんで人にあたえるたびに、いのちが少しずつ輝きだす。あたえられた人があたえ返すことを考えはじめ、礼と返礼の法則がきざしてくる。外にでて樹木に手をふれ、地面に座って花の美しさを讃えることだ。

 

わたしはその方法を、友人でIBMの技術者、マーセル・ヴォーゲルに教わった。自分にとって特別な木を一本選び、木からのエネルギーが手に感じられるようになるまで、毎日、その木を両手で抱きかかえるという方法だ。

 

しばらくつづけたら、わたしにも木のエネルギーが感じられるようになった。それ以来、わたしはいつも患者にその方法をすすめている。はじめのうちは妙な顔をするが、そのうちに、わたしがいっているのは母なる自然と親しむというだけのことだとわかってくれる。わたしがシンシナティからいなくなったとき、街じゅうの木という木に人間の相棒がいることになっているとしても、別に驚くにはあたらない。

 

公園や広場で気功の練習をする中国人が、木を抱きかかえるようにして両手をひろげている写真を見たことがないだろうか?実際に木を抱きかかえることと気功とは多少ちがうかもしれないが、自分のたましいにふれるという意味では同じように思われる。

 

緑の少ない都市のアパートに住んでいる人にも、観葉植物を買って育てることをすすめたい。窓ぎわのあかるいところに置き、水をやり、肥料をやって、愛のエネルギーを注ぐのだ。植物もエネルギーを発散して応え、部屋をいちだんとあかるくしてくれる。まさかと思う人は、二、三日、その植物を部屋から片づけてみればいい。部屋からいのちがひとつ消えたという、なにかさびしい気持ちがするはずだ。

 

あたえればあたえられる。なぜか?あたえるたびに、その人のなかにある生命力の輝きがますからだ。それは木にも花にも観葉植物にもある生命力とまったく同じものだ。

 

われわれはときに、人間も動物や植物と同じ自然の一部でしかないことを忘れてしまう。五感をとおして経験される欲望が、自分だけはちがうと錯覚させるのである。

 

霊性を高めるもうひとつの方法は美術館に行くことだ。そこでは、展示してある唯一無二の作品を創造し、無から有を生じさせた作家たちの圧倒的な生命力にふれることができる。その経験は自分自身の生命力を刺激することに役立つ。もの音ひとつしないギャラリーに座っているだけで、一種の厩想状態になれる。ありがたいことにアメリカでは、二二人の男どもが肉弾をぶつけあうフットボールの試合には何万人もの人が押しかけるというのに、美術館は秋の美術シーズンの週末でさえ閑古鳥が鳴いている。

 

時間をつくって静かに座り、自分のいのちについて考えてほしい。霊的な側面に近づくために自分がなにをしてきたのかを、よく考えるのだ。いのちの霊的な部分にたいしてどれほど配慮してきたかをたしかめるために、ノートに行動リストをつけるのもいい。また、自分がどこでエネルギーを賢く使い、どこで使いかたをまちがったのかについても考えてほしい。

 

自然を味わい、見返りを期待せずにあたえ、すぐれた芸術家の創造性の果実から喜びをひきだす。それらはすべてエネルギー・ブロックの解除を助けてくれる。ブロックがとれ、生命力が流れだせば、自然に健康が増進される。自分の霊的な側面にふれることが多くなれば、エネルギーはそれだけ自由にからだのなかを流れるようになる。




愛とは霊的な力を発現させるエネルギーのことである。からだをめぐるその力を感じる能力が高まれば、それだけ愛を感じる能力が高まる。惜しみなく愛することができれば、からだ・こころ・たましいをはたらかせ、成長へと向けている力のバランスを維持していることになる。人を愛する能力の有無は、その人の内部にある本質に気づき、それをうやまう能力の有無にかかっている。その本質の美しさに気がつくと、その人にひきつけられるようになる。その人もあなたにひきつけられる。もはや、そこにいるのはふたりの人ではなく、ひとつ、たがいに分かちあう愛のなかでつくられたひとつの存在である。愛の行為とは相手を「全一体」にひろげることであり、愛とはあたえ、またあたえることである。


愛と癒し

手技による癒しは、患者が自己の本質につながろうとするのを助け、その人を「まるごと」の状態にもっていく。ヒーラーがかざし、ふれる手は、患者の本質がその人のからだとつながるのを助け、その結果、ふたたび生命エネルギーがじゅうぶんに流れるようになる。

 

そこでヒーラーが手を使って、患者のからだのなかのエネルギーをととのえ、バランスを回復させる。

 

ヒーラーは意思をつうじて患者に愛をおくる。すると、頼れるヒーラーに見守られてリラックスした患者は、その愛を受けとる。愛はすべての医師の仕事に不可欠である。なぜなら、患者はその愛に敏感なものだからである。患者が待っている病室に医師がはいってくる。すると患者はほっとする。「助けが」きた」と思うのだ。患者は愛に敏感だ。

 

二、三日前、わたしは這い這いをいやがる女の子を治療した。生命カが低く、ひよわな子だった。からだをゆるめ、呼吸を回復させた。けさ、その子の母親から電話があった。治療を終えて家に帰ると、その子はすぐ、部屋じゅうを元気に這いはじめたというのである。母親は自分と夫がどんなに喜んだかを弾んだ声で語った。わたしがその子におくったものが、こんどはその子から両親におくられたのである。癒しもまた、あたえ、またあたえるものなのだ。


進化

わたしはこれまで、からだ・こころ・たましいの健康維持についてのべてきた。それにはまだ先がある。それが進化だ。

 

人の進化はその人の意思の発達を土台にしている。こころには欲望と意思というふたつのはたらきがあることを思いだしてほしい。そこでわれわれは自分にこう問いかける必要がある。「意思の発達を遅らせているものはなにか?」わたしは人類がいまでも進化しつづけていると信じている。その進化はわれわれのDN Aのなかに、ホルモンのなかに、からだ全体にその姿をあらわしてくると信じている。

 

前の章で、わたしはこの国が霊性から遠ざかり、物質主義と自己中心主義にとりつかれているとのべた。それは今世紀に起こった数多くの悲劇から生まれたものだと考えられる。たとえば第二次世界大戦は、相手国の国民はもちろんだが、この国の人びとのこころにも傷あとを残した。多くの兵士が戦死し、多くの子どもが父親なしで育てられ、だれもが犠牲をしいられる生活に慣れていった。そこに朝鮮戦争とベトナム戦争がつづき、国民のこころの傷はそのつど深まっていった。戦争のトラウマとつぎつぎに起こる社会の大きな変化は国民に希望を失わせ、振り子が否定的な方向にかたむくたびに、物質的な欲望と霊性の軽視という気分を生んでいったのだ。

しかし、進化に関心をよせる人がどんどんふえているいま、わたしは人間に大きな希望の徴候を見いだしている。この傾向を促進させるための道はたくさんある。

 

霊性を高めることがその第一歩であることはたしかだ。目に見えない内的世界を理解するためにもっと時間を費やしてほしい。変えなければならないものは、その内的世界にある。そこを見つめて、自分の想念パターンを観察し、それを変えるのだ。世の中の問題はすべて人びとの想念パターンから生まれている。自分の過去の行動や経験をふり返ろうとしない人たちがいる。人生はいましかないと教えられ、いまからの努力一しだいで将来の成功がきまると信じこんでいる人たちがいる。過去の行動が現在の問題をもたらし、将来の問題にまでつながっていることを立ち止まって考えようともしない。それらはすべて、その人たちの固定した想念パターンの産物である。

 

物理的・心理的とを問わず、トラウマが神経系に刷りこまれるものであることを知っている人はひじょうに少ない。だが、過去の経験からくる否定的な影響をとり除くことができれば、からだの生理作用が変わり、進化にたいしてもっとオープンになることができるのだ。そうなれば世界にたいする態度が変わり、生命エネルギーの輝きや、からだのなかで共鳴しているより微細なエネルギーの放射が感じられるようになる。


自分が大いなる進化のなかにいると気づいたとき、人はどう変わるのだろうか?たとえば、その人は弾むように軽やかに歩くようになる。たえず自然の美のエネルギーを吸収しているからだ。たとえまわりが自然に無関心な人たちばかりという環境にいてもさきやかな自然にひそむ細部の美の多様性に感動し、こころを打たれるようになる。

 

そして、自然とのつながりはますます強く、豊かなものになっていく。

 

その人はまた、自己を表現することによって進化をかたちにあらわすようになる。自己の内なる健康を外部の世界と交流させるようになる。人を助けることに喜びを見いだすようになる。もとめられる前に、すすんで手をさしのべるようになる。健康であることの大切さは、ただ自分のためだけではない。

 

自分の健康はある意味で、すべての生き物の健康と進化につながっているのだ。

 

われわれはともに、この世界を分かちあって生きている。あらゆる生き物が平等に、宇宙の力に頼って生きている。だから、地上に生きる目的のひとつは、われわれすべてがひとつの存在であるという事実に気づくことにある。世界から孤立し、かつ健康であることはできない。

 

進化した社会では、人は自分を愛するように敬意と関心と配慮をもって他人を愛する。自己の想念パターンにたいする高い制御力をはっきりと外にあらわす。他人が自分を思いゃってくれる以上に他人に思いやりを示す。

 

というのも、人が他者のなかにつくる否定的な想念は、その当事者だけではなく、社会全体にとって有害なものだからである。

 

進化した社会では、人は地球にもっと敬意を払うようになる。人間の健康が地球の健康に支えられ、自然のなかにあるエネルギーが人間のなかにあるエネルギーであることを知っているからだ。

 

最後にわたしの予言をひとつ。人類はふたつの衝動のあいだでひき裂かれている。ひとつは進化の衝動、もうひとつは破壊の衝動だ。もしこの文明の兵器と汚染によって絶滅させられてしまうことがなければ、われわれはきっと進化のより高い段階にのほっていくだろう。

 

われわれが発する波動の周波数は高くなり、生命力を敏感に感知する人がますますふえていくだろう。われわれは身体的にも精神的にも、より健康になっていくだろう。人びとはもっと思慮深くなり、自己の本質を受けいれ、肩の力をぬいて生きるようになるだろう。

 

小さな変化はすでにはじまっている。その変化を大きなものにしていくためのただひとつの道は、あなた自身が自分を大切にすることである。肉体的にも、精神的にも、霊的にもだ。自分の健康のために配慮し、行動することはすべて、あらゆる人、あらゆる生き物の健康に寄与することにつながるのだ。



〜『いのちの輝き ロバート・c・フルフォード著』第七章から抜粋 〜