わたしのワークの世界観

私のワーク」ページなどにも世界観を書いていますが、ほかにもいろいろ書いてみました。(ブログと結構重複してます。。)


バイオダイナミクス、『僕たちのしていることはこういうことなんだよ』


『僕たちがしていることは、
こういうことなんだよ。』

 

 

 

 

と、クラスの全員に
トム(バイオダイナミクスの先生)のハワイのお家の裏にある
夕日を撮った写真を
ひとりひとりに配ってくれたらしい。
 

 


 

 

**



奉仕とは、。



明日からの講座で
それを、空間を通して、
フィールドから、
トムを通して、
クラス全体を通して、
伝わってくる、真実を
体感として、
また何か一つ、伝えてもらうのだろう。



 


アインシュタイン、愛の手紙



自分のために、セッションやってると、
飽きてくる。
毎日毎日、多数のセッションを積み重ねていくと。

 


まだ経験の少ない時期だったりすると、
それは、バイオダイナミクスの世界は、
とても、魅力があって、真実があって、
この世界を教えてくれる、
喜びと、つながり、本当におもしろい。


しかし、それは、自分の喜びだったり、
自分の経験のためだったり、
自分の学びのためだったり、
自分の商売のためだったり、
してくると、もう、なんだか、つまんない、
飽きてくるんです。


そして、最近感じていたのは、
自分のために、ということでは、たぶん、今後もやっていけないし、
そこに、真実はない。


奉仕、ということを
バイオダイナミクスの世界では、
エッセンスの一つとしています。


(それは、一般に認識されている概念の
”奉仕”とは違うと思います。)



それって、
そこには、
あっっとうてきな、!!
圧倒的な、エネルギーがあって、
そこには、満ちている。

 


だから、生きていけるんだ。

 


と。わかるのが、
バイオダイナミクスの奉仕でした。


トムがボランティアで講義してくれた1日勉強会クラスにでた、
友人から、メッセージが来て、


そして、
アインシュタインのメッセージ(アインシュタインが娘に送った手紙)を送ってくれました。
ネットに出ているし、
過去に見たこともありますが、
今見ると、
その、奉仕の世界、
飽きることのない、無限の世界に
触れられることを思い出しました。


ありがとうございます。


(一時期、昔見たときには出どころがわからないし

ほんまものかな?と思っていましたし、

今でも本物か知りませんが、

書いてあることは、本当だと思います。)

 


(アインシュタインが娘に送った手紙)引用しますね。


私が相対性理論を提案したとき、
ごく少数の者しか私を理解しなかったが、
私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、
世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを
社会が受け容れられるほど進歩するまで、
お前にこの手紙を守ってもらいたい。


現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、
ある極めて強力な力がある。

それは他のすべてを含み、かつ支配する力であり、
宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、
しかも私たちによってまだ特定されていない。

この宇宙的な力は「愛」だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、
彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。


愛は光だ。

それは愛を与え、かつ受け取る者を啓発する。


愛は引力だ。

なぜなら、
ある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。


愛は力だ。

なぜなら、
それは私たちが持つ最善のものを増殖させ、
人類が盲目の身勝手さの中で絶滅するのを許さないからだ。


愛は展開し、開示する。

愛のために私たちは生き、また死ぬ。

愛は神であり、神は愛だ。


この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。

これこそが、私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。

それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを
学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、
私たちが愛を恐れているからだろう。


愛に視認性を与えるため、
私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。

「E=mc²」の代わりに、私たちは次のことを承認する。

※ E=mc²:エネルギー(E)= 質量(m)× 光の速度(c)の2乗
  アインシュタインが発表した特殊相対性理論の方程式。


世界を癒すエネルギーは、
光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、
愛には限界がないため、
愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に
人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで
自分たちを養うのは急を要する。


もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、
もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、
もし私たちがこの世界と
そこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、
愛こそが唯一のその答えだ。


恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと
身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、
愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分の中に小さな、
しかし強力な愛の発電機を持っており、
そのエネルギーは解放されるのを待っている。


私たちがこの宇宙的エネルギーを与え、
かつ受け取ることを学ぶとき、
愛しいリーゼル、
私たちは、愛がすべてに打ち勝ち、
愛には何もかもすべてを超越する能力があることを
確信しているだろう。

なぜなら、愛こそが生命の神髄だからだ。


私は自分のハートの中にあるものを
表現できなかったことを深く悔やんでおり、
それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。

恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、
私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに
到達したことを、お前に告げる必要があるのだ。


お前の父 アルベルト・アインシュタイン

 

 

 


ねこじゃらしみたいなセッション

 

ねこじゃらしみたいなセッション
やっていきたいんですよ。



スピ系の世界で
『上と繋がる』、ってあるじゃないですか?

わたしも
バイオダイナミクスの世界で
施術をしていると
そういった世界観も(比喩的に)つかっていたり
しますが、
ちょっと、一般的なスピ系施術とは
ちがう気がするんですよね。



バイオダイナミクスで施術をするとき、
『上と繋がる』っていう感覚は、
自分をなくす、ということ。



すごい力を発揮する、
ということではありません。
不思議な力を使うんだ、
ということではありません!



上と繋がることで、
ヴィジョンを見たり、
リーディングしたり、
それはそれで、もちろん
アリだと思いますし、
興味深いし、
僕もそういう世界は好きです。



でも、バイオダイナミクスを学んでいて
そういうことではないんですよね、
やっていることは。


それは、命はどこからやってきて、
我々の本質は何なのか、
ということで、
それは、海のようであり、空のようであり、
夕日の太陽のようで、草の海原のようである
そんな
世界に染み渡り、我々の中にも染み渡っているもの
なんです。


いのち、我々の存在そのもの、
その中心にあるものとは、
そこから透明な光が放射している。

※透明な光ではなく、エゴを引き寄せるザラザラした刺激のある眩しさの光はリージョン(病変)の
主張です。


その透明な光を、保存し、敬う。
その透明な光そのものを、この手の中に包むとき、
そこから何かが放射し始めます。
本来の光の道筋を、病変を焼き尽くしながら
広がっていく。

その『手』とは、
透明な光と同質の、『透明な手』でなければなりません。
エゴの意図や計画が、少しでも入っていては、
それは、よどみ圧迫し全然違うレベルのもので遮っているのです。


それは、制限をする、
”正しさ”を当てはめたり、何かのルールを参照したり
そこに留めて、エゴの満足や安心を得るための
わかった、という
あなたはこうでしょ。と、限定する手では、
我々バイオダイナミクスを学ぶものにとっては
『上と繋がっている』ということでは、ありません。


そのとき、圧迫を感じるでしょう?


それは、だいぶ次元の低い”上”と繋がってしまっている。
違う場所、違う領域の何らかの存在と
つながっている。

われわれバイオダイナミクスを学ぶものは
そこ(次元の低い存在がいる領域)はスキップします。
関わる必要がない、
感情や、取引、限定や力。
圧迫を感じるところです。


本来は、自由と広がり、
空間、スペース、
その存在の光が放射していけること、
その進む道、その存在、
ありかたは我々が決めることではありません。


透明の光と関わりができ、
それが放射し始めたら
あとは、その道筋は
叡智ののプロセスに任せます。
自由であること。
限定してしまわないこと。


意図を向けないこと。


。。


だから、日常的なパターンのように
枠にはめたり、限定したり、
こうだ、と答えを探し続けて思考し続けたり
答えをもらうことで、「気づく」ということで
心を揺さぶられたり、わかった、と思うことで
そこに”固定”されてしまうような
やり方ではなく、

そこから自由にどこへでもいける、
スペースと空間と光の放射、
透明な何もない性質、そういうところに
いる、ということが
でき、そこから自由に進められれば、
と思います。

※気づくということは、気づく、ことで、
そこから過去を引っ張り出してきたり、思いを深めて追求していくこと、
感情を追求していくこと、原因を(頭で)探りに行くこと
それはすでに気づきではなく、エゴの渦に入って行ってしまっているのではないでしょうか。
みなさん、私も含めて
よく引き込まれてしまう、強い力がありますよね。。
でも、もう幾度となくやってきて、迷い揺れるだけでした。
それで、しんどい、いつまでたっても、しんどい〜、と
感情に、理論にすがっていくより、
ただ、透明なところにいる、ということを
知って、その時間と場所をもてれば
また変わってくるのではないかな、
自分の中心から。


。。


ねこじゃらしみたいなセッション
やりたいわ〜。
って思うんです。

A.F.さんの感想文にでてくる)

実際のところは、
エゴはあるので、
効果がでてるでしょ、と思ってもらいたいし。。
わからん、といわれるより、すごいです〜と言われたいんですけどね。


実際多くの方の変容を見てきて、
それは、姿勢だけにとどまらない変化、です。
すごいな、と思います。

(いただいた感想文を読んでいても
これは、俺何もしてへんで、、すごいな、という感じ。)

すごい、といわれると嬉しいし、
自分のやっているワークが間違っていないことの確認にもなります。


しかし、
ロルフィング10シリーズに来られる方の中でも
まれに「わからん」と言われる方もおられます。
(たぶん、10〜20人にひとりくらいかな。)

それでも、体の変化や、
施術中に私が知覚している世界では、
すごい変化を自覚されている方と
同じことが起こり、その変容の起こる領域にまで到達し、
体は変化をされていると感じています。



すごい変化を自覚される方と、
そうではない方。
しかし、こちらから見ていると、
同じく変容はされている。


要望や感情や評価、
わかってもらうということ、
このあたりでやっていると、
揺られ揺らされます。


やっぱりどうしても
気になりますし、
かつては、このあたりでも
頑張ろうと思っていました。


しかし、最近、
幾つかのバイオダイナミクス関連のセミナーに
でて気がつくようになったのですが、
ちょっと違う感覚を持つようになってきたんです。


それが、ねこじゃらしみたいなセッション、
なんです。



このロルフィング10シリーズって、
どこに価値があるのかな?

というとき、
幾つかの領域があると思うんです。
・体の変化、肉体。
・心の変化、
・感情や世界に対する認識、
・人や世界に対する関わり方。
・それ(あなたの変化)を見た人の反応。
などなど。
もちろん、同時に存在しています、
意識する/しないに関わらず。


主に、ロルフィングを受けることを考えるとき
一番目の「体の変化、肉体」を目的にしているでしょう。
(ただ、私のロルフィングに来てくださる方は、
どうやら多くの方はそれ以外の領域にも興味を持っているような気がします。)


その結果、体がどう変化したか、
それもロルフィングを受ける限りとても効果が出ると感じています。
(私のロルフィングに限らず、ロルフィングのレシピの力として)
そして、受け手の方の評価や喜びをうけられる。
それはいいことだし、うれしいし、とても励みになります。

しかし、
最近は、
それだけではなく、というよりむしろ、
そこを立ち位置の中心にするのではないやり方がもっと
ワークの性質と合っているし、そこでやるほうが
効果も出ているような気がする、
というのは、、

わかりやすく言うと、
『その人が関わる世界とのつながり』
というところです。


その人の変化は、
周りに伝わる。



それは、具体的なこの社会での活動や人とのかかわり
もそうですが、


もっと違う領域も
実は含めて、のことです。



それは、
この一滴から、世界に広がる調和、
とか、このバランスの一点から広がるフィールド。
のように表現されたりもするし、


ソースフィールド、や、
バイオダイナミクスでいうエゴの外側のD/S、
みなに共通の領域。


心理でいうと、(詳しくないけど)
集合的無意識、
とかになるのかな?


あるいは、祈り。



ALL MY RELATIONS.



 

だから、制限するのではなく、
自由が必要なんです。

 

 

 

 


(バイオダイナミクスの繊細な領域で、
上とのつながり、の中でやっていると)


それは、具体的で、
リアルです。




あ、バイオダイナミクスの学び手としての
『上とのつながり』って
どんな感じなのか書くの忘れてた。




運命を全うしますように

 

 


昨日、カレンデュラのチンキ
仕込んだんですけど、



植物は施術の学びでもあったりします。





チンキを作る時、
その仕込みの時には
いろんな要素が、出来を決めるでしょう。


いろんな要素、


それは、カウントできないし、
誰にもわからない。
知っていること、頭でわかること考えること、
ではどうにもならない世界。




たとえば
科学的にとか、知識として、
カウントしてみようっと、


ウォッカの度数40度?50度?
アルコールは水とアルコールの混合物
カレンデュラの成分のうち、
水に溶け出すものと、アルコールに溶け出すもの。
アルコールの度数に左右されるでしょう。

で、40度か50度、結局、どっちの方がいいチンキになるのでしょうか?
誰にもわからない。
使う人や症状やその他環境の要因や他の薬や食べ物の作用との関係性とか
いろいろ無限に条件は変わるし。



ウォッカに浸けるカレンデュラ、
どのくらいの量を、浸けたらいいのでしょうか?
どの部位を?

そもそも、その前に、
植物療法の、作用の本質って、なんなのでしょうか?

成分?
葉っぱや花に含まれる成分、化学物質が作用するから、効くのでしょうか?
もちろん、そうでしょう。でも、それだけでしょうか?

生命力のようなもの、その土地や人と関わってきた植物、
自分の育てたカレンデュラ、その私とご縁のある方が使用する。

たとえばね。そんなものが作用しているかもしれない。


どうやって、効き目を計るのか?
化学物質や成分の量では、測れないところが
必ずあるとは思いませんか?


誰かに習うとか、こういう法則があるから、というのではなくって、
知ってるでしょう?
経験的に、というか、直感的にも。


そう、そこを使いたいんですね。


カレンデュラのチンキを作る時、
やっぱり、いいものを作りたい、というのがあります。
こいつが邪魔をする、、。エゴ。


どのくらいの分量の葉っぱを、
どのくらいの分量の花を、、。
できるだけ生命力が強そうなものを、、。
最高のものを作りたいから!
、、エゴ。
なんですわ。きっと。


この立ち位置からやり始めると、
もっと、もっと。
もっと入れたらいいんではないか?
もっと、成分や生命力を入れたほうが、
めっちゃいいものをたくさん!

とやると、きりがないし、
なんだか、
おかしなことになってくる、、。

頭で考えて、
判断したり、作り出そうとしたり。
結局、


『わからない』


と、なる。



(施術やその他いろんなことと同じですね。思考は行ったり来たり、、定まらない。さっきああいったと思ったら、今度はこう、みたいに。)




こういう時って、
どうやったらいいか知ってますか?


手に負えません。
なので、
とってもシンプルで、
たぶん、これはボディワークでは、
ハートから触れる、というやつでしょう。


『この植物の運命が全うされますように。』


植物には、それぞれの運命があり
それを表現して、生命に、世界に奉仕したい、
とういう願いを持っているそうです。



分量や成分ではなく、
頭であれこれ考えるのではなく、


『この植物の運命が全うされますように。』


と、ハートでつながり、
それと直接対峙する時、


『わかる』


という感覚がやってきます。
それでやるんです。


それでやるしかない、
それがハートの静けさからやっているとき、
正しいことをやっているのかどうか
身体感覚としてわかるようになってきます。



『わかる』




と、経験的に。
直感的に。



 

**

 

 

 

こういう効能があって効き目のあるチンキにになりますように、とは
つながろうとはしない、
それは、
限定してしまう。とうこと。

 

 

知っている範囲のことを

当てはめてしまうと、

それ以外の無限の可能性を排除してしまう。

 

その効果以外にも、私たちの知らない
能力、運命があるかもしれない、
絶対にある、むしろ、そっちの無限の可能性を尊重する、
比較にならないほどの、要素、運命。


運命を全うしますように。



それは、ロルフィングのセッションと施術者のあり方に

似ているかもしれません。
 

 

 

 


極大と極小の世界では、エネルギーと肉体の区別がなくなっていく

 


ひとつ、大きなが流れがあって、

個と、、全体、
自分を満たすことと、、他者に奉仕するということ。
お金と権力と策略と、、愛ということについて。


コレ、文字だけ見ると、
たぶん、
一般的に捉えられているであろうということ、
と、
ちょっと、言いたいこととのギャップがあると思うんですね。

それは、
かつての自分の経験と、今の自分の感じていること。
の、
差というところで感じていることです。



**



救われる、ために、
今まで、いろいろ探求されてきたり、
追求してきたこと。していること。


そういうの、あるじゃないですか?


『こころ』に、興味のある方達、
『解放』に、未来と真実を求めている方達、


この『問題』をなんとかして、
取り外して、救われたい、、。


感情。わたし。



自分の奥深くを追求して、
焦点を尖らせていく、
感情や思考や過去のトラウマや。
追求していく、、。



そこに、答えがあると思っていました。



トラウマの原因、
この私の苦しみの原因、
追求して、暴き出し、取り外そうとする、
解消だ!!


という、、道。



かつての私も、それをやってきて、
そして、


。。


それを通り過ぎてきた、
ということでしょうか。



通り過ぎてきた
その先に、


そこに何があったか、
を、お話ししたいと思います。



**




こういうの、って、
話すのが難しいので、
まずはこういうはなし、、。




私は普段のセッションで
エネルギーワークの類はしていませんし、
一般的に敬遠される、というので不利、というのが
どこか昔からあるので(たぶん、多くの方と同じように)
気をつけて扱わないようにしてきました。

ま、ないことにしていましたし、
基本的には、しています。




でも、超繊細なボディワークをしていると、
エネルギーと、肉体の、
分類自体が無意味になってきます。
いっしょ。



感情も思考も肉体もスピリットも、エネルギーも、
ただ密度が違うカラダのように知覚され始めます。
(これが真実ではないですが、ここではわかりやすくずいぶん荒っぽく説明しています。)


セッションでは、体を知覚しています。
肉体を知覚していますし、それを繊細に、超繊細にしていくと、
肉体とエネルギーとの区別は、できなくなってきます。
マクロからミクロへ、
物質から分子、原子、、波動へ、(=これは物理学でスピ系の話ではないですよ〜。物質も極小の世界に行くと、粒子はなくなり波になります。)のように。
(youtubeにそういう動画あった気がする。。)

(あった!これだったかな?https://youtu.be/mUSGjAm6XkA





さて、セッションでは、
現実にはエネルギーから物質としての肉体まで、
幅広い現実を扱っている、といえそうです。



私の土台になっているものは、
バイオダイナミクスオステオパシーです。



その学びを深めていくうちに、
扱っていく領域がどんどん広がっていきました。
固体としての密度の濃い肉体から始まり、、より密度の薄い体へと。
あるいは、逆に密度の薄い体から始まり、、より密度の濃い肉体へと。


どちらが正しく、どちらが間違っているということではなく、
人の全体を扱うとき、区別や線引きはどんどん曖昧になっていき、
なくなってくるようです。そして、人の全体とは、個で完結したものではないとわかってきます。
周りと、環境と、世界、、全体と、つながっています。




なので、私のやっていることは
一般的に言う”エネルギーワーク”ではない、
ですが、
体の現実のうち、あらゆる層、あらゆる密度の現実を
扱っている、ということになっています。

つまり、
エネルギーワークをする、というときとは
出発地点と立ち位置が違うというのが一つ特徴かもしれません。


一般的に、「エネルギーワークをするぞ」、というとき
エネルギーをみるという出発地点と立ち位置で、
その他の現実、領域、肉体としての体や、思考や、スピリットなどは、
『除外してしまい、見ていない』と思います。


一方、『人としての全体』(私のやり方)を見るとき、
「ひとをエネルギーだ」として、エネルギーに限定しようとはしません。
肉体に触れたとき、肉体としての体を知覚しますし、
それを繊細にしていくと、もっと密度の薄い体の現実を
知覚し始めます。
そして、そこで、肉体を扱うのと『同じ原理』で
感情の体や思考の体、スピリットも含めた、領域も扱っていく。
それは、肉体を扱っていますが、同時にあらゆる領域をも含めようとしています。


ある側面からみると、エネルギーとして扱っていると見えますが、
もっと広い視野で見てみると、『全体』を扱っている、、その中の一つの場面ということにすぎないです。
ある側面からみると、肉体を扱っていますし、別の側面からみると、感情を扱ってますし、
さらに別の側面から見ると、『世界』を扱ってもいるのだと思います。同時にそれらすべての領域は存在しています。

 

 

あ、そうか、、そうか。
さっきのyoutubeみたいに、
肉体を触れていても、極小や極大の世界に行くと、
エネルギー的世界観になっていく、自然と。
という感じ、ですね。
つまり、体を扱っていても、繊細に知覚していくと
いつのまにか、エネルギーの世界と区別がつかなくなっていく、
という感じ。

 




。。



あら〜?

話がだいぶん逸れてきた。。


。。



というわけで、話を本筋に戻すと、、



体の現実のうち、
エネルギー、とくにチャクラに限定していうと、
こんなお話があります。


(ざくりで、荒っぽく。大体の解説です。)


ひとには、七つのエネルギーのセンターがあって、
それぞれ、ベース(尾骨)、セイクラル(仙骨)、太陽神経叢、ハート、喉、アジナ(眉間)、クラウン(頭頂)、、
の順に、より粒子は繊細になっていきます。




ここで話題に挙げたいのは、
太陽神経叢と、ハートです。




。。



あ、なんか
話すのめんどくさくなってきた。
なんでやろ、気ぃ抜いて
もうちょっと、がんばろ。


。。



・太陽神経叢=エゴ、個、自分のため、自分のためのパワー、権力。感情。愛情=情があり個人の想いが入る。渦巻く感情。損得。
・ハート=奉仕、繊細、無限、愛、光、より大きな存在に通じている、エゴがない、個がない、感情ではない。透明で繊細。



ざっとこんな感じで、
雰囲気つかめますか?



太陽神経叢、ハート。
どちらで、世界に対峙しているのか?
それには、大きな性質の差があります。


太陽神経叢(エゴ)の充足とは、周りから、自分に、エネルギーを吸収して取り込み、自分を満たします。
自分の解放、自分の問題の解決、自分を満たす。自分を楽しませる。周りから、世界から、エネルギーを奪う。
喜びで満たし、、しばらくすると、落ちる。
(それ自体が悪ではないでしょうが、そういう性質。)


ハートの性質とは、
無限。奉仕。それらは、ハートから他者へ放射される。取り込むのではなく、広がっていく。
他者とは他人ではなく、個々の区別のない全体、人も含めた生きもの、無機物も含めた、エネルギーフィールド、世界、宇宙。あるいは、さらに大きな存在。
自分を満たすのではなく。世界(宇宙、さらに大きなもの?)に参加する。
それには。喜びや充足感もありますが、太陽神経叢の充足とは種類が違います。
もっと穏やかで、静かで、激しさや眩しさはありません。自分は自然の一部かのような。
感情や理屈や認められるとか、そういった充足感はありません。
でも、満ち満たされている、何か不思議なせかい。




さて、ここで始めに戻りますが、
自分の傷やトラウマ、自分の問題の解決に、
解放に、道を歩んできた方々、


ある一定のところまできたら、
無風地帯にいたるかもしれません。


そこからさらに先に進むとき、
エゴの追求では、停滞していくでしょう。


今までは、自分のためにやってきました。
そこから先は、実は他者のため
それが、ひとつのキーになっていくでしょう。


太陽神経叢(エゴの充足)から、ハートへ
移行する時代です。




**




もうひとつ、チャクラのお話を。




ベース、セイクラル、太陽神経叢。
ハート、喉、アジナ、クラウン。



太陽神経叢とハートの間には
横隔膜があります。


エネルギー的に、横隔膜は、
上と下を分けている。
それは、下の三つのチャクラ〜太陽神経叢が整うまでは
下からの荒い粒子の危険なエネルギーが、上昇して
上のさらに繊細なチャクラを破壊しないように守っているのです。


横隔膜(の下)には、
感情がたまりやすいと
言われます。



体が整い、
太陽神経叢までの下のチャクラが整ってくるとき、
横隔膜は、
その安全なより繊細になったエネルギーを上の領域に透過していきます。



そういう時期が、
やがてはやってくるでしょう。



ハートの時代です。
あなたは、
他者へ何かをするハートの時代にさしかかっているのかもしれません。



景色が変わります。
そして、
その奉仕のエネルギーは
自らも癒します。
それは、全体のエネルギーフィールドに伝わり
世界に伝播します。


あるとき、ある一定数のところの到達するとき
世界は、転換するといわれている。





そこに、あなたも
参加するのかもしれません。


感情について


ボディワークの観点、つまりは、バイオダイナミクスの観点から
感情について、少しお話ししておきましょう。




人としての『全体』、、というとき、
物理的な体も扱いますし、
感情も、思考も、心も、スピリットも、
そして、私たちそれぞれが属する世界も、
関わってきます。



とくに、『感情』というとき、

世間でもてはやされますし、
感情の解放とか、
なんだとか、いろいろみなさん執着しますが、、
(かつての私もそうだしたが、、)

私のボディワークの、バイオダイナミクスの観点から見ると、
少し様相がちがいます。



物理的な体のほかに、
感情の体、があると仮定します。



それを、術者は知覚して施術をします。
それは、液体的であると表現されますが、
透明で静かで濁りのない様子、淀みのなく清流のように自由で透明。
それが、健全な状態だとすると、
薬や、他人の感情やら、なんやらの影響で、
どろどろになったり、欠けたり、ビリビリしたり
という状態になります。


さて、感情に対して、
感情で対処しようとするとき、
この液体の体の中にある、淀みや渦や不純物(※1)に対して、
アプローチしようとしますね。

このとき、さらにその渦や不純物(※1)は注目し集中されることでエネルギーを獲得し、
強化され、状況はひどくなっていきます。
その場はスッとしても、体としてみると、体調は不調に向かっていく、という体験を
みなさんしているのではないでしょうか?


※1

あ、感情ってなにか、
というときの『感情』って、
この透明であったときの不純物のない健康な「感情の体」

ではなく、

つまり、物質化(具現化)した”感情”の背景にあるマトリックス

ではなく、
そこの中にに生まれた歪みのことを言っています。
たとえば、想い、怒り、悲しみ、
透明なところに、密度の濃い物質化した何かが動いています。
透明であったところに、生まれた歪み、リージョン(病変、歪み)です。


本当に、感情を解放して、健康になるということは、
この密度の濃い歪み、リージョンが消えていくことです。
つまり、それは、想いや過去のトラウマを思い出し掴みに行くのとは逆で、
消えていく、忘れていくことです。

それは、意識や感情で対処しても無理で、
そのさらに下にあるより密度の薄い層、
それが癒しの光を発している層にまで、到達することが必要です。

それが、たとえば、ハートであり、(感情ではなく、感情のない透明な)慈愛であり
天と地をつなぐミッドライン(中心軸)の静けさであるのですね。




密度の濃いリージョンの解消は、
透明な光に透過されることで崩壊していきます。
透明な、感情の体に、クリアになっていく。
と、同時に思考も感情もクリアになっていく。


それが、
感情の扱い方なのかな、。
と思っています。


なので、その固形物や密度の濃い
「感情」自体は、相手にしない
その先にある光を相手にしています。



感情に対して感情では勝ち目がありません。

その歪みたち、は、そこから下の透明な層にはいくことができませんが、

それより下の層、そこに我々はいくことができます。

 

 

ハートの感覚、

コンパッションです。


感情や評価や心配や、、

それより下の層に

いくことを選択した施術者が

バイオダイナミクスをやっているのだと思います。

 

 


倒木、ひとりひとりのなかにある神聖



あるところに、木こり(?)がおりました。




あるところに、夢想家がおりました。






夢想家は、その道を己の道と想い、進んおりました。
ひとより、ひいでているようにおもいました。
なぜなら、人の知らない領域を進んでいたからです。

しかし、あるとき、その男は、
自分の中の資源(資質)に、嘆くことを知りました。
その資質は、世界の中で稀でした。
そこには、光が宿っているようでした。実際、宿っていました。
しかし、あるひとは、ずっと凌ぐ光を宿していました。
かなわない、それは、
その人の生きてきたことを明かしていました。
証。つみかさね、時間を経てきたどうしようもない、ひかり。
もしかしたら、前世からのひかり。

おとこは、叶わぬ自らの素質に、泣きました迷いました。旅に出ようと思いました。
真理とは何か?
その男の進む道の意味とは?

その存在には、価値がありませんでした。


存在に、純粋さに、新たな担い手に
遠く及びません。



純粋な光、祝福。
かの人にはあり、
その男にはない光。
ない、光。




世間の雑踏を離れ、さまよい、迷い、、おとこは、いつしか、山に入っていました。



嵐の後、雷の後、
いっこの、倒木に会いました。


根は強く、しかし数メートルで折れ、倒れている。


そこに、ひざまづいた。
ノミと槌を振るった。



一心不乱?
導かれるままに振るった?

そういうことではなく、そこにのみを当て槌をふるう。
ただそういうことだった、
一心不乱といえばそう。ただ、思いも何もなくただそうせざるをえない、ふるった。
なにか、自身の中にある信仰に、向かっていたようだった。

そこに現れたものに、手を合わせた。
そして、次の旅に出た。


また、一本の倒木に出会った。
そして、為すべくもなく、ノミと槌を振るった。

自身の内の信仰とむきあっているようだった。
なにもない。のに。


そして、形が現れた。
仏の姿をしていた。

手を合わせて、次の旅に出た。








何か理由があったり、誰かと比べていた時代はもう、忘れ去っていた。思い出すこともない。ただ、次の旅に出た。




そこに、仏の倒木がきざまれたいた。






(ふと、喫茶店に置いてあった本を思い出した、だけ。)




 


あの時代、死ぬ必要はなかった

 

音楽が聞こえてきました。

 

たぶん、UAの閃光。

 

 

 

布団の中で、ぼんやり、、。

思い出していたのは、「水の女」

たぶん、

 

UAが出演している映画。

 

。。

 

 

 

そんなことは、もう忘れていたのですが

あれはたぶん、13年くらい前かな。

3年間の旅行から帰国して、

まだいろいろフラフラしていた頃です。

 

 

たぶん、長野の松本の友人宅に止めてもらった時に

この映画をビデオテープ(DVDてもうあったっけ?)で

何人かで見た記憶があります。

 

 

 

ネタバレでなんですが、

思い出していたのは、

ある男が、煙突を登っていくのです。

そこで、その途中、不意に、

カミナリに打たれて、死ぬんです。

燃えながら、落下して、地面にドスン。

 

 

 

一緒に見ていたうちの一人の女の子は、

泣いていました。

あんまりだ、と。(何回見てもなく、つらい。らしい。)

 

 

 

でも、ぼくには、そのとき、

「救いだ」と、思えていました。

 

 

 

 

 

 

死ぬこと自体、しょうがない、仕方がない。

別にいいじゃないか、みたいなところが、

そのころは結構あったと思います。

 

 

 

そこで、たぶん、思ったのは、

カミナリに打たれて、燃えて、、自然と一体になって

死んでいく。

 

 

その男は、たぶん、自死するために、煙突を登って行ったんですね、

その、頂点に達する前に、道の途中で、雷に打たれたんです。

 

 

迷いと、苦しみ、恐怖に、、渦に巻き込まれ

苦しみの時間を過ごす前に、「不意に」

自然と一体に、死ぬ。

 

 

そんなことは、恩寵だ。

くらいに、思っていた記憶があります。

 

 

 

 

あの頃から、の、紆余曲折、

いま、ここにいます。

 

 

ロルフィングに出会い、

もう一度深い闇の中を通り抜け、

地上に出てきて、、ロルファーとして活動し、

 

 

今は、バイオダイナミクスを学び、

その、、本当の世界、

この世界の背景に存在する本質、

その姿を見させてもらっている。

 

 

 

 

その世界は、かつては、

私にとって、ロルフィングもバイオダイナミクスもまだ知らない時代、

空想の世界だったかもしれません。

 

 

 

その世界があり、そこを実践し、

それは、人に伝わっていくような気がしています。

 

 

 

 

あの時代、死ぬ必要はなかったし、

自然と一体となるために、死ぬ必要はなく、

ただ、その世界と、同時にあり、

そことコンタクトすることができる。

 

 

 

そこでこそ、本当に、生きられる。

 

 

 

それは、古い時代、たとえば、ネイティヴアメリカン、

誰でもしていたことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

それは、光だし、

奇跡だし、理由のない世界。

 

 

 

 

 

 

 

 

体が、呼吸している。

全体が、一滴として。

 

 

 

SEA AROUND US.

 

 

 

命の海に囲まれている。

その内に、包まれている。

 

 

 

 

 

 

今日から、またバイオダイナミクスのトレーニングに行ってきます。

今日という日を迎えられて、うれしい。ありがとう。

 

 

 

 

 


ハートが開く、コンパッション(慈愛)と苦しみ


体が変わると、感覚が変わり、
それまでは、封じ込めてきた新しい感覚が生まれることがあります。

たとえば、背を丸め、胸を固めて
姿勢を維持してきた人が、、
脊椎の関節、肋骨の関節、胸骨、、肩甲骨、、、ゆるみ、動きが出てきた時、
かつて固まっていた、胸や背中の感覚が、取り戻されてきます。


そのとき、温かさや、安心感を感じることもあります。
一方で、脆さ、晒されている感じ、を感じることもあるでしょう。



それは、やがて過ぎていき、
ご自身の新たな、立ち位置として中心化されます。
バラバラではなく、まとまり感、、これが統合です。



本来あったはずのものが取り戻され、

意味も理由も感情も、やがては通り過ぎ、

本来の体、本質の自分として取り戻された何かは、、恒常していく。

自分の一部となったそれは、部分として留まらず、さらに、、全体で一滴のように、新しい存在に変容していく、、

本来の存在に近づいていく、のかもしれません。

 



**


ここ1、2週間の私の感覚、、


1、2週間ほど前、、あれは
セッションをしている時だったかな、、(繊細な施術をしていると、共鳴するためか施術者の方も変化をしていくようです。)


もう、この世界で、都合や合理や損得の世界では、自分の中心を置いておくのは、もう無理になってしまっているな、、。もう、別の世界に移行してしまっている、本来の自分のあるべきところは、もっと違うところ。

ああ、こっちになってしまったか〜。


そんな想いです。


そこは、日常のもろもろの、少し下の薄い層の世界。
より頭よりハートの世界で、理屈よりご縁や流れや、、命の法則に少し近づくようなところ。



そのとき、感じたことは、象徴的に。
ハートが開き、流れが通り抜ける感覚。

自分の胸の前方から背中の方にかけて、(外側の世界から)何かが通り抜けていく。
すると、ハートが開き、、(同時に背中側も開く、、今気づいたのですが、そこは、背骨の昔から痛かったところ。。最近は痛みは感じないけど、やはり、閉じてきたところ。)


ハートが開き、何かと共鳴する(?)
この居心地感。




。。





そして、今日。。なんかヘン。
なんかツマラナイし。
なんかうまくいかない感じ。むかーし、まだ調子が悪かった頃の感覚が少ししているような(?)。


鬱といえば鬱っぽい(?)



なんだこりゃ?
どうやっても、回復まではいかないな〜。




バイオダイナミクスの講義のテープ(テープではなくてmp3か。音源。)を聴いてみる。
すると、とたんに楽になる。


あ、ハートが開く。
ハートが開くと、こんなにラクなのか〜。



この空気感とか、声とか。
話の内容とか、世界観とか。




そこで、しばらくして、
胸の後ろ、背中側が開くことを思い出した。


流れが前方から後方に通り過ぎていく。
ハートを開き、少し薄い別の層に降りる。


ハートを、無理に閉じていた。
すると、通り抜けていくものと隔絶されていたのか?

ハートを開くと、ラクだ〜。



気づかぬうちに、開けるようになっているハートを
昔のパターンのように閉じている時、
こんなことが、起こるのかな?



何かがハートを通して、僕を通り抜けていく。。



**


そうそう、講義のテープのお話で、ひとつ。





ある、カソリックの(?)教会に行った時のこと、

ドームの真ん中、ちょうど真ん中にひとつのタイルがある。
そこは、祝福をうけるために、人々が順番を待つところ。

そこに立つと、すごい浄化の感覚があったらしい。


そういうふうに、エネルギー(?)が集まるように
設計されているんだろう。(神社の雰囲気とかもきっとそうでしょうね。)




ある回廊。


真ん中に廊下があり(うろ覚え。。)

右(だったかな?)にいくと、マリア像がある。
compassion、慈愛。(感情ではない、愛。)

もう一方に行くと、キリスト像。
苦悶の表情、とても苦痛。苦しみ。



真ん中にはスティルネス(静寂)があり、
片方には、慈愛。もう一方には、苦しみがある。
それをホールドし、バランスしているのがスティルネス(静寂)。



ハートが開くほど、慈愛を感じる。
それとともに、より苦しみも感じる。
それをバランスしているのが、静寂(スティルネス)。




静寂(スティルネス)とは、
ディヴァイン(神)の存在の表れ。それ自体に、癒しの力がある。





。。講義中、少し話がそんな話題になったようです。
でも、そういう風に、施術の現場では、感じていることもあります。
だから、本当のことかもしれません。