体の世界観

わたしのワークの基盤になっているカラダの見方、回復すること、本来の姿、あり方などについての(私の個人的な解釈ですが、)世界観をお話しします。(※ロルフィングの世界観ではありません。私が学びを深めてきた、もっと根源的なカラダの世界観です。)


僕の中の”治療”というイメージ 

 

手技で”回復を促す”とき、

どんなことをしているのかというと

 

体の中心軸、それぞれの四肢、骨や筋肉などの組織、、もっと小さかったらたぶん細胞、それらの軸に

流れが回復すること。

 

たとえば、人体ができる以前にエネルギーの流れがあったとしたとき、

そのエネルギーの流れの回復が、

肉体の回復に先行する、というような感じ。

 

その流れを、もっとわかりやすい物理的な世界で説明するとしたら、

例えば血流やリンパの流れ、とか体の中の流れの回復、代謝の回復、、ということもできるでしょう。

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それをどう説明したらいいかな、、
ホースを流れる水の流れの回復、みたいな表現をしたとして、、ちょっと違うかな。

ホースの水の流れを遮る、汚れや泥を落とす、
すると、水の流れが回復する、、

そういう表現、、なんかちょっと違う。
ある側面ではそうだけれど、、。

もうすこし、見方を変えてみる。
部分や詳細から少し離れ、もう少し広く全体を見てみるとき、、

たとえば、やまに水田がある、
田んぼ。

上流の方から段々になって田んぼがあり、
水が上の方から順に下ってくる、
上の方の田んぼの水を満たし、次の田んぼに流れ込み、下の方へと下っていく。

上の田んぼに滋養を与え、植物を育てる。
水の流れは
次の田んぼ、下の田んぼに流れ込み、
滋養を与えられ、そこに植物が育つ。生き物が育つ。生態系が現れる。

あるとき、土砂が崩れて
上の田んぼと下の田んぼの間の流れを阻害したとする。
チョロチョロになった。

したの田んぼは十分な水を与えられず、
枯渇する、植物は弱り、あるいは枯れ、生き物は弱り、減る。
食物連鎖、生態系は痩せ細る。

病んでいる。

この状態を人体と置き換えると、
病変や歪み、それらはこのような現象、
ここでいう土砂の役割を演じている。

土砂が流れを遮るとき、そこから先に滋養は行き渡らない。

その水の流れが十分でない先の、下の田んぼの治療を
いくらやっても、植物は育たないのと同じように、
流れが阻害されているその先の治療をいくらやっても
人体の治癒は促されない、それだけのパワーがない。

なので、まずここで必要なのは、
その流れを遮る土砂を、取り除き、流れを回復させること。

しかし、その土砂は役割を持って、
その土地の神様に、そこに配置されているとする。
たとえば、その土砂の一番下に置かれた岩がある、とする。

それを取り除けば、流れは回復する、
と。人間が頭や理屈で、やってしまうと、、
その土砂は崩壊し、、土砂全体が田んぼを破壊してしまう。

その土砂は、実は山の田んぼの全体を守るために、
そこに配置された、すべての田んぼが全滅しないように
大雨によってできた土砂の流れをそこで、食い止めるために、そこに配置された土砂、

人間のやりたいように、取り除けばいいというものではない。
それは、全体を守っており、
ただ取り外すと、全体が崩壊する。

人間には広大過ぎてわからない、
だから、その土地の神様に聞く、

どうしたらいいですか?

すると、まだ十分に土砂が乾いていないので、
いまは、まだ、土砂を扱うことはできない、
まだ雨が降り続いている。。

という返事が来たのなら、
それは、そこを扱うという答えとして返ってこない。

いまは、扱うべきではない、
だから、ひとには知らされない。

雨が止み、
その土砂が扱えるようになったとき、
知らせが来る。

そして、どこを扱うべきか
気づきがもたらされる。

この岩を、そして、その次はその岩を、
そしてその次はその木の根っこを、
次にこの土砂を、、。

そうして、その土地の神様の指示に従って、
施術は行われ、、流れは回復されていく。

。。


さて、神様の指示に従って、
岩や土砂を取り除くことが全ての治療なのか?

いやー、違います。

そこまでは、施術者の役割でしたが、

そこから先の、
本当の治療は、
その回復された水の流れです。

水の流れが回復されたとき、

次の水田に水が満たされていく、、滋養が行き渡っていく、、
そして、その流れは続き、
その次の水田に流れていく。そこで新たに回復が起こる、、そしてその先、その先、、。
植物が育っていく。

それだけではなく、

その水のもたらされた、水田、
流れが回復された水田では、人智の超えたことが起こってくる。
人には完全に予想もできないこと、

植物が回復し、新たに芽吹く、
その水に、魚がやってきたり、虫がやってきたり、
それをもともて、水鳥がやってくるかもしれない。
そうやって、そこに生態系が確立されていく、
森が回復するように。。

そこに生態系が回復すると、
それは、その水田を超えて、
世界に、、回復は波及する。

渡り鳥が、やってきて、次の土地に飛んでいく。
そこに、種が落ち、次の森が産まれていく。

完全な世界。人間には分からない世界。
それが、治療の世界。


かもね。




**



なので、、
施術者ができることって、
施術者の力ってなにもないのよ。
そこにあるのは、
神様の指示に従うことと、 水の流れが治療を継続していくこと。


以前どこかの記事で、アメリカかどっかの国立公園に
荒廃した国立公園、森は失われ、生き物はへってしまった。

そこには、かつてオオカミが生きていた。

家畜を殺すから、駆逐されたのか、、?


その国立公園に数頭のオオカミを放した。
数年後、
生態系はバランスを取り戻し、
森が回復した。


オオカミが、森を作った。


そんな話、


回復の話。

人の手を離れ、自然の力が、流れが回復を、治療を続けていく。。


自然界の法則とエネルギー

ネイティブアメリカンは、物質としての自然界の背景に、スピリットを感じていたという。もっとも繊細な感覚で知覚できる世界があるのだろうか?

 

近代社会の方法論と、自然界の原理で導かれる癒し

子供の心は、いつ失われたのか?

 人間の本来の姿が、純粋で、エッセンス(直感、、?)が”わたし”を導いてくれる。本当の姿、エッセンスというのは、なんだったのか?それは、大人になるに従い、曇り、、隠れて消えてしまっていくとしたら、その原点は、赤ちゃんのすがた、にあるとしたら。笑顔、あり方、他者との関係性(笑顔)、、。光を放射するかのように、周りも笑顔にしていく。その姿が、我々の本質であるとしたら、それは、いつ失われてしまったのでしょうか?

 たとえば、この近代社会において、人間は、、社会生活を始めると共に、たとえば、学校に入る、、子供はその純粋なこころを、保つことはなく、徐々に、監視と管理で、大人の姿になっていく、教育。他者との関係性、学校の先生、、どれもが本来の人の姿、とはかけ離れた存在であり、そこに整形されていく人々。

 本来の姿って、人間はどんな姿が、調和した存在だったのだろうか?(最近は、ネイティブ・アメリカンの本や世界観に影響されていたりするので、こんなことを考えます。)大地と切り離されてしまっている、、ということ。回復には、再び大地に帰ること、という話がこの社会で生きてきたひととしては、ピンと来ています。

 大地に帰るとは?大地、、地球と自然と調和し、生かされているという感覚。その背景にある、物質レベルではない、何かの知覚。現実としてのスピリチュアル、生かされている感覚。その物質とスピリチュアルの二元性をリアルに知覚し生きていた人々。ネイティブ・アメリカン。

 失われたものは、なんだったのか?近代社会において、この物質しか見えない世界において、循環や感謝は見えず、個人の資産の確保と補償、、それが自然界からは歪に矛盾してもう成り立たなくなっていても、見えない。

 本当に、その背景には物質以前の何か大切なものがあるとしたら?それは、自然界を通して見えてくる、超自然界、、の原則。子供の頃は、そんなものに、生きていた。

 物質と損得と個人の資産、補償の社会のルールしか見えない世界で、この人の本来の姿としてのエッセンスを回復しようとしても無理じゃあないか?大地に帰る、自然に帰る、ということに生き延びるキーがあるとしたら、その見えない、本質を再び見つけることができるかもしれない。

 その一つの方法は、施術を通して、、再びそのエッセンス、自然と超自然、マザーアースと星々、、大きな流れの循環の中に生きること、、そんなことを再び明らかにしていくことができるのではないか。そして、ロルフィングの10回のシリーズを通して、あたらしい世界にシフトしていくことを、その期間を作ることができるのではないか。

 インナーチャイルドは決して傷つかない。というあるオステオパスの言葉がある。子供の頃、赤ちゃんの頃、からその生命の光、我々のエッセンスである、本質は、全く傷付いてはいません。その生命の本質の光があるとしたら、それを傷つけることは何者にもできない、、大人になるに従って何が起こってきたのか?それは、その生命の本質の光の周りに、人間の理論、理屈、社会のルール、さまざまな物理的、感情的な衝撃、、それらが、傷や歪みとして光の周りに存在している、その傷や歪みを解消したとき、光は外の世界に広がってこれる。消えたと思っていた光は、実は隠れていただけ。また、光は放射し始める、それが、周りの他者を癒していく。そんな世界観です。

 

エネルギーという言葉

 問題の解消、傷の癒やし、歪みの解消、、わたしの施術の根幹にある世界観の中では、ひとをただの物質としてだけは捉えません。物質としての肉体はもちろん、もっと「エネルギー的な体」も扱っています。”エネルギー”といっても、いろいろエネルギーワークは世にはあると思いますが、そういった類のエネルギーワーク、というのとは違います。なにか特別な力があって、施術者が不思議なエネルギーを流すことによって体の痛みを治す、ということはしません。そういう世界観ではないので、エネルギーワークではないといいます。

 では、物質としての肉体だけではなく、エネルギー的にも体を見ている、とはどういうことでしょうか?簡単に説明しますと、物質としての肉体とは、この日常の社会生活の中でみなさんが触れていて当たり前に使っている世界ですね。固いとか柔らかいとか。五感を通して知覚しています。その日常の知覚レベルで肉体を扱っているときに、物質的な肉体を扱っている、というとしたら、エネルギー的に体を扱っている、というときは、もっと繊細な知覚レベルを使っている、ということです。

 それは、一般の社会的な言葉で表すのなら、たとえば、”雰囲気”のようなもの、空気読む、とか。それは、しっかりと確実な(固いとか柔らかい、とか)はっきり誰にでも説明できる感覚とは、少し違いますよね?わかる人にはわかるけど、わからない人には通じない、鈍感やね、とかで済ませます。でも、現実に、”ある”じゃないですか?雰囲気、、起こってるとか、悲しんでるとか、明るくて、ハツラツとしている、とか。固いとか柔らかい、とかを知覚する感覚とは少し違う、もっと繊細な感覚ですよね。でも、五感を使って知覚している。知覚レベルの差で、現実を捉えています。

 このように、肉体もさまざまな知覚レベルでその現実を捉えることができます。繊細な領域の知覚、それは、他者と共有しにくかったり、頭での理解ができる範囲の外側にあったりします。ということで、頭で理解しやすかったり他者と共有しやすい”常識”という意味での「物質的な肉体」という言葉に対して、他者と共有しにくい、ある一定以上繊細な知覚領域での現実は「エネルギー的な体」、という呼び方をしています。

 

我々を生かす力=”健全”

 自然界の原理で導かれる癒し、というのがあるとしたら。先の文章で少し触れましたが、われわれの中には、絶対に傷つかない本質がある。生まれたときから、赤ちゃんに表現されている、生命の輝き。

 では、その生命の本質と、傷や歪みとはどういう関係性なのでしょうか? 我々を生かす力=”健全”という名で呼ぶとします。”健全”とは、エネルギー的に体を見た時に、最も繊細なエネルギーであり、それ自体が、癒しの力を持っている、と思ってください。

 

傷や歪みは、なぜ作られたのか?

 我々の本質には、”健全”=我々を生かす力、最も繊細なエネルギー的な体があります。それは、全てを知っている、生命の叡智です。歪みは、傷は、その生命の叡智が我々を守るために、作ったものです。

 物理的、または、感情的に、、体が衝撃を受けたとき、そん衝撃により全体が崩壊しないように、生命の叡智(=”健全”)は、そこにその衝撃のエネルギーを凝縮し、歪みとしてそこに配置した。衝撃が波及して全体が崩壊してしまわないように、一点に衝撃のエネルギーを凝縮して配置し、我々を守っている。

 その歪みがあるおかげで、全体が崩壊しないで済んでいるのです。ですので、そこが歪んでいるから、という理由で、その歪みを取り外したりはしません。全身が崩壊するのを守っているのですから。

 

傷はどう癒されるのか?

 ”健全”により作られた傷や歪みは、解消されるタイミングがやってきたとき、再び”健全”によって癒されます。最も繊細なエネルギー、それ自体に癒しの力があります。いや、むしろ、それにしか癒しは起こりません。ですので、傷や歪みを癒すためには、その健全の力につながる、ということが、自然界の原理に従った癒しの方法であり、表面に現れた歪みや痛みとしての現象の解消ではなく、それがやってきたところ、原因から解消が起こるやりかたです。

 

病変や問題を見つめると、より強化されてしまう。

 病変や問題は誰にでも見つけられる。健全を見つけなさい。という言葉があります。病変や問題に癒す力はありません。歪みや傷、問題に焦点を当てるとき、そこにエネルギーを与えてしまいます。つまり、より拡大して強力になってしまう。なので、一般に見るセラピーや治療は、体の持つ癒しの進む方向と逆のことをしてしまっています。そのときよくても、体の全体のシステムとしては、よりトラウマや衝撃による歪みを強化し、生命の治癒の進む方向を妨げる働きをしてしまう。

 では、”健全”を見つける、とはどういうことでしょうか?

 

”健全”にアクセスする、とは?

 傷や歪みがあったとき、そこに焦点を当てるとき、拡大してしまいます。では、健全にアクセスするとは、どいうことをするのか、なぜ、解消がおこるのか?傷や歪みそれ自体は、病変です。しかし、その出どころは、、”健全”です。なぜなら、健全によって傷や歪みは作られたからです。

 その出所である、健全にアクセスすることで、その健全のエネルギーにつながることで病変は解消できます。健全にアクセスするとは、、さまざまなやり方があると思いますが、それは、施術者の意図で、健全であるべき姿に歪みを元の位置に戻そうとする、ということではありません。それでは施術者の意図、つまり、人間の世界の理論や法則によって、そこでは届かないはるか先にある自然界や生命の叡智の法則の邪魔をしてしまいます。(たとえば、放射能をレベル1まで浴びても大丈夫、などとは人間の勝手な都合により作られた政治的なものであり、自然界や生命の法則では意味のない数値ですね。)

 健全にアクセスする、とは、、自然界の法則、生命の原理のレベルにまで知覚を合わせるということ、そして、そこの法則に従うこと。その繊細なエネルギーのレベルでは、人間の理屈や都合は持ち込めません。

 その原理を簡単に、説明すると、、人間の世界でいうところの”雰囲気”の話で例えてみます。怒ってる雰囲気、悲しんでいる雰囲気、楽しく溌剌とした雰囲気、、その雰囲気を五感で感じ取っていると、それにだんだん自分が変えられていく、、その雰囲気にシンクロしていく。そういうことが起こると思います。施術の世界では、最も繊細な知覚で”健全”にシンクロしていく、というやり方で健全にアクセスすることができます。

 その最も繊細な領域に達したとき、変容が起こります。その最も繊細な領域、とは、ネイティブアメリカンの世界観でいうところの、物質とその背景にあるスピリット、我々を生かす力。その世界にこの近代社会を通り抜けて到達する、そこには、何も損なわれていない、大自然界が存在している、深く眠り、癒しが起こる。というような感じに似ているでしょうか。

 大地と切り離された人間の近代社会に生きるということは、必然的に自分の中の何かが損なわれるということ。再び大地に帰ること、あるいは、その背景にある何も損なわれていない、健全の世界につながること、それこそが、本当の回復の道だとしたら。こどもには、いつかそこに帰っていくことのできるなにか道標を残しておいてあげたいものです。この人間社会は大変なので。

 


体の世界

 

体は(意識は)段階的にシフトしていく

 生命力の流れが回復していくとともに、体は段階的にシフトしていきます。大まかにいいますと、体の中心軸、そして、カラダの下から頭頂に向かって段階的に整っていきます。とくに、ヨガなどでいうチャクラという観点を借りてきた時に説明すると、ベースチャクラ〜仙骨〜太陽神経叢ー横隔膜ーハート〜喉〜眉間〜頭頂、という順に整っていく方向になります。それが施術において段階的に起こるシフトです。頭頂まで整ってきた時、体の全体としてのあり方、意識と心のあり方も、段階的にシフトしてきたことでしょう。

 この段階的なシフトにおいて、大きく人としてのあり方がシフトしていくときがあります。それが、太陽神経叢→ハートへのシフトです。自己を満たし、やりたいことや感情、認められること(太陽神経叢)から、他者のために、奉仕、謙虚さ、、何かそれまでとは違った世界の見え方、満たされ方が変わり、、この世界との関係性が変わる時期がきます。

 

 

〜つづく〜