あらゆる宗教の聖者たちは、単純な神の概念を通して神 を体験する境地に達している。"絶対なるもの"には姿形がなく、それを概念として心に描くことができないため、人間はそれを人格化して〝宇宙の母"として想像し、慕い求めてきた。人格神論と、〝絶対的存在"の哲学との融合は、ヴェーダやバガヴァッド・ギーターに見られるように、古代のインド思想の一大業績である。この対立せる両 者の融和こそ、人間の心情と理性をともに満足させるものなのである。信仰心と英知は、本質的には一つのものである。神にすべてを託し、神の慈悲にすがることは、そのまま最高の知識に至る道なのである。

切られたヒノキ
そこに行って
樹皮をいただいたあと
最後に少し
そこにいて
すこし手を合わせて
みた
ときに、
空間を通して
感じたものが
あったのです
それは、
光を感じる、
といっても
雨で
薄明かり
そこには
木が立っていた
空間がまだ
そのまま残っていて
そこで
木が受け取っていたものが
そのまま
そこに
感じられた。
受け取っていたもの。
ひかり、滋養、慈愛、
目で見えて
触れられる
物理的なものだけではない
木が
上から与えられ
受け取っていたものが
そのまま
そこにありました。
施術では
待つ、ということが
よく言われたり
キーになることだったりします。
あるひとは
積極的に待つ、という、
ただボーっと待つのではなく。
でも、
ここで感じたことは
ただボーっと待つのでもなく
積極的に待つのでもない
そこに立っているだけ
ただ
神の慈愛を、というつながりをもちながら。
そんな感じがした。
※意図とは、使い方が要注意。人間が何かを変えようとしたり、願いを達成しようとしたりすると必ず大変な矛盾と混沌を生み出します。意図とは、そこにつながる、そこにチャンネルを合わせる、受け取る、ということ。あとは任せる。
マスター・マハサヤやそのほかの聖者たちの謙虚さは、 自分という存在が、実在する唯一の生命であり審判者である神に完全に依存している、という認識から出ている。そして、神の本性は至福であるため、神と同調する者はその 無限の喜びを経験するのである。「人間の魂と意志が熱望するものの第一は喜びである」と聖ヨハネは言っている。