イールドワーク(Yielding Work)
※現在の私のワークにはイールドワークはほとんど使われていません。今ではより根源的な生命の学び「バイオダイナミクス」のアプローチにより施術されています。
※エネルギーワークではありません。
イールドワークとは
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無意識の内に身体を調整している脳の部位(脳幹)に「身体感覚」を通してアクセスすることができます。身体の無意識のコントロールを司る脳への働きかけなので、軽い触れ方で根本的な変化を起こすことができるのです。
それは他人に外力で変形させられるのではなく、自身に内在する力がもたらす変化です。変化の鍵は「自己調整」の力です。
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触れるだけなのに変化が起こるので不思議に思われる方もいらっしゃいますが、その変化は物理的なタッチによる刺激をきっかけとし、クライアント様ご自身の身体が反応することによるものです。
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身体の変化は身体自身が行います。(観察される事例⇒)施術者である私の仕事はその条件を整えていくことです。
身体が安心して変化をし始める。その場を作ることが最も大切だと考えています。
メニューに「イールドワークセッション」を追加しました。(詳しくは「メニュー」ページをご覧ください。)
軽く触れるだけ?一体何をしているの?
軽く触れるだけで特に「何かをされた」という実感があまりないけど、何をやってるの?と聞かれることがあります。施術中に行っていることは、いろいろありますが少し紹介したいと思います。
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身体の重さを感じてもらう目的で触れる。重力に委ねるということを、頭ではなく身体のレベルで気づいてもらう。委ねることにより流動性が高まり、反応の土台ができてくる。
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・身体の特定の構造に間接的に触れる。たとえば、足の指先に軽く触れ、脚や骨盤の繋がりを通して間接的に横隔膜に触れる。同時に膝関節や骨盤底などにも触れ相互関係の中で連動性を促す。
・どのような意図でどこに触れるかは、セッションの目的(レシピ)が指針となる。
・また、それは施術者とクライアントとの関係性の中で現れてくるものであり、流れの中で見えてくるものでもある。施術者が誰であるかにより関係性は異なり、反応も異なる。人同士の相性は歴然としてあると思われる。
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・身体自身が調整を始めたとき、反応が全身に波及して行くのを邪魔せず促進されていく手助けをする。
・たとえば、身体が調整している制限とならないように手を離し、少し離れた場所に移動する。
・頭ではなく無意識のレベルで身体は周囲の気配を感じており、安全な場を得ることで反応を進めることに集中できる。
・施術者がどのような意図で、周辺のどの場所で見守るかも反応に影響する。具体的には、呼吸のシフトや軽い痙攣などとして観察される。
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・変化は日常でも継続していきます。
・セッションで得た変化により、身体の各部は新しい位置関係を持ちました。新たな身体構造は重力下で釣り合いをとりながら落ち着くところに落ち着いて行く。より安定した、より心地よいところへ。
・それは身体が自身で変化を選択していくという場であります。あなたを私の思い通りに作り上げている訳ではありません。
イールドワークの基本的スタイル
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一瞬触れてすぐ離れる。軽く鳥の羽が乗っているかのようにしばらく触れる。しっかりと囲い込むように触れる。手の上に身体が委ねられてくるのをただ待つように支える。などなど。まだまだあります。 キーとなるのは安全な場の中での身体感覚、脳・神経系にアクセスすること。
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それをサポートします。ときには、能動的にじわーっと押してもらう。またあるときは、ただ動きのイメージをしてもらう(イメージするだけでも身体はすこーしだけ動いています)。などなど。 キーとなるのは身体がやり遂げたという感覚をもつこと。
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動きの癖は身体の構造にも影響します。その癖にない新しい動きを誘導することがあります。動き出しのキッカケをあたえることもあります。それは自分独りでは絶対にできません。第三者となる人が必要です。なぜなら私たちはパターン化された動きの中でしか動くことができないからです。
キーとなるのは身体(脳)が学習する機会をもつこと。それはゆーっくりと行われます。 そして学習したことを実際に使うかは身体がその後の日常で選択していきます。あとは身体に任せることです。
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視覚、聴覚などをツールとして身体の周りの空間認識に気づきを与えます。
空間の認識の欠如は身体の構造にも影響を与えています。事故や衝撃などは空間認識の歪みをもたらすことが多々あります。 空間認識の変化はとても大きな意味があるように思います。
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『共鳴』とは、同化とか同情といったものとは別物です。
・「同化、同情」とは相手と一体化し、混ざっている状態。自分を見失い、客観的視点を失っている。施術者として相手の身体の声を聞くことができない状態。自分の思うがままに施術してしまったり、相手の言うことを聞きすぎてしまったり、身体の叡智ではなくエゴで施術が進んでしまう。本来の道筋から離れていってしまう。
・『共鳴』とは、相手と私は別の存在。互いに中心をもち、独立した存在だが、そのフィールドの中でお互いに関係性を持って対峙している。互いに混ざることなく、純粋性を保ち客観的視点に立って施術している。相手の本来の姿、本来の道筋に沿って施術する。まるで何かもっと高次の存在、身体の叡智に支持されているかのように。
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以下、 『整体。共鳴から始まる(片山洋次郎著)』から一部抜粋です。この方はロルファーさんではありませんが、施術の世界観は私のワークと共通する部分が多くあります。
p35
自分と相手という限られた場での共鳴というふうに意識してしまうと、間合いをとることが難しくなる。
もっと大きな場の共鳴の中の一部として、自分と相手がいるかんじになれれば楽である。
◇
”共鳴”によって新たに身体が向かう方向というのは、身体が潜在的に向かいたい方向である。身体の勢いのおもむくままどこへ向かうかは、その人の自由であり、身体そのものの判断というべきもので、・・・。それを何らかの価値観によってコントロールしようと思えば意識は濁り、共鳴そのものを阻害する。
◇ ◇ ◇
下記、プラクティショナー(施術者)でないとわかりにくいかもです。。
P33
理想的には互いに共鳴してゆくことによって、双方の共鳴の障害になっている部分が融解して、全身の中の共鳴的な部分に素直に変わってゆくということ
◇
相手の「悪い所」を探そうとしてしまうということがある。そのことに集中してしまうと分析的立場で相手を観てしまうことになるので、そのこと自体が共鳴の障害になってしまう。
相手の「何か」が見えるという感覚は完全な共鳴状態から見れば、自他分離の二元的状態へのズレを意味している。
◇
身体の観察ということは、共鳴(一元化)と観察・客体化(二元化)の往復運動である。
◇
ここで何かが見えてくるということは共鳴を元にしている
自他の間に「第二の自己」が立ち上がる感じで、自分でも相手でもない自分、あるいは自分でもあり、相手でもある自分がそこにある感じ
何かを見るということは、強いていえば自己とそこに立ち現れる「第二の自己」との差異を解釈するということをやっているように思える。
◇
以下、またまた『整体。共鳴から始まる(片山洋次郎)』からの引用です。
気的コミュニケーション=共鳴力
それは自己を強く持とうとしたり、人を支配しようとするほど弱くなり、自己を希薄にするほど強くなる。
共鳴する力は目に見えないから、そういう力をもっている人たちは単に役に立たない人と見られている場合が多いし、一人の人の中でそういう側面は評価されない。
そういう力をもっていて知らないうちに人を元気づけている人があるのだが、評価されないばかりではく、無意識的に拒絶されることも多い。
逆に「役に立つ」「自己主張がある」という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す。