ひとは
感情ではない、
さらっと
おもったこと。
ひとは
感情、とか
絵やアートに感情を込める
とか、
なんかあるでしょー?
そういうのもあるでしょう、
そういう活動の仕方
もあるでしょう。
ふーむ
では
人が感情か
というと
そうではないと思うんですよー。
感情、もある。
アイデンティティ、のひとつですね。
それが
ワタシ!と思ってる。
けど、本質(本性?)はそうではない
と思うんですよー。
感情が本質ではない?
感情がワタシではない。
いわゆる、一般的に言う
”感情”
て、たいていは「反応」だと思うんです。
外界のできごと、しょっくや
ふつうのできごと、いいこと、わるいこと
それに反応して、
感情が生まれ、それがワタシになってる
そういう
もんだとしたらー、
(それも一面にすぎないかもですが、そういうことにしたらー)
「反応」する、ってどういうことか?
純粋な反応と、作られた反応。
あかちゃんが、わらう〜!
一方、
ワタシが、、感情として表出するもの。
よろこび、くるしみ、いかり、かなしみ、、。
ポジティブ/ネガティブは二元論、
それが、存在する以前の、世界、
まだ、判断、判別する意識が生まれる以前の世界、
そこに立つと、
ポジティブ/ネガティブという価値意味づけがないところ、
そこでは双方、同じ質感、粒子間、粘土、、リズム。
そのリズムは、自然界と人間界の中間
ゆっくりした、通り抜けるリズムと、
早く、、テンポがリズムが早い世界、
その中間、感情のリズムの世界、、。
そこで、起こる反応、
ワタシ、
ワタシの感情、
それは、なんだろうか?
それは、反応、
何に反応しているのか?
傷、リージョン、病変、
感情のリズムにある、傷、習慣、教育、文化、、トラウマ、
赤ちゃんの頃にはなかった、
もともとはなかった、傷、渦、
それが、反応する。
これが、ワタシ、、
反応物、反応しているものは、あとづけされたもの
本来はなかったもの、
では、
本来の”感情”って、
感情のリズムにある、、マトリックス、感情の”体”
基盤となっている、透明な母体、
それは、
コンパッション、慈愛、、の反映。
そこにある傷、それが、
覆い隠す本性を、
本性が、慈愛であるのなら、
”感情”とみられているものはそこに浮かぶ傷、歪み、トラウマ、
それは
果たして”わたし”だろうか?
反応する、反応する、、世界は
人間の世界は、そうやって
感情のやりとりで回っていく、、
感情が、そのひとか?
そうは思いません。
感情が反応する、
反応する元がある、リージョン(傷、歪み)0
それが解消されるように。
反応する元がある、
それが、傷が
後付けされた、本来のワタシではないものが
反応し、感情が表出する、
反応してしまう!
できごと、きっかけ、
反応してしまう!
その時点まで
積み重なり、溜められた、エネルギー、
感情の傷に、流し込まれたエネルギーの蓄積、容量まできたら、爆発する、
きっかけが何かはカンケーがない。
きっかけが原因ではない、
反応する領域にまで、エネルギーがチャージされていた
すると、きっかけで反応する、
感情が表出する、
それが、ワタシとは思わない。
ひとの本性が、慈愛であるのなら。
感情はそれを反映する水。
…。
たぶん、それは
本当だと思う。
透明に近づいていく