あ〜、これやったかー❗️
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バイオダイナミクスの
創始者の方の
おすすめの本、ということを
聞いたことがあって、持ってます。
ずーっと以前、もう消しちゃったブログで
少し出てきたかもですが、
この本、
クリスチャンの本みたいやね。
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なにがあ〜❗️これやったかー、といいますと。
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バイオダイナミクスや
バイオエナジェティックの
世界を見ていると、
マンメイド(人間界)、自然界、さらにその背景にある超自然界、
を感じたりしますよね。
でも、これは、
施術の世界には限らず、
どの世界にも、突き詰めていけば
そこに辿り着くような気がせんでもない。
ただし、
それは、エゴのないところを辿って行ったところ。
欲求や、思いや、、役に立つもの、
のような、
エゴの世界からは絶対に辿り着かないところ
のようです。
世に溢れる色々なワーク、
どれかしら?
おっと話が逸れた。
バイオダイナミクスの創始者の方は
自然界をとてもよく観察していたようです。
すると、スーパーナチュラル(超自然界)にも
気がつくようになるのでしょうか。
そこは、エモーション(感情)、人間の欲求などからは
外れたところ。
何にも役に立たない、こと。
が大切な世界、かも。
そして、最近は
大地の再生が気になっているので
その世界でも、
、、とても自然をよく観察していて、
五感の学習、身体感覚を通して
学び、考え、その背景にあるものに従い、沿う。
感じがする。
『五感を研ぎ澄ますと、
第六感が働き始める、ホントですよ❗️』
ていうのは、リアル。だと思う。
https://youtu.be/qos67FaCmh8?t=494
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バイオダイナミクスの世界で、
こんな図を見たことがある。
MAN MADE 人間界(理論、感情)
NATURE(自然界)
SUPERNATURAL(スーパーナチュラル、超自然界)
スーパーナチュラル、超自然界、、それは
一般的にあるスピ系のような話とは全く異なる、
色付けされたり、役に立つように、とか、思いとか、とくに力を行使しようなどというのはまったくない
色のついていない、神聖なもの、ただ、神聖であって、絶対にこちらから触れたり触れようとはしないもの。
利用したり、使用しようと意図したり絶対にしないもの。
それぞれの世界にはリズムが、
呼吸がある、、
人間界、感情の世界、、ここから力を使わないこと。スピ系はここからやってしまうことが多いね。。
自然界、シンプル、、とても静か。。静けさから、自然界の世界にアクセスしていく。。
さらに静かに、、
超自然界、、神聖で神秘、ただ畏怖するもの、利用したりコントロールしたり絶対にできないところ。
思いや策戦など持ち込めない領域。意図や思いがあるうちは、ここにはいない。
自然界を観察してその背景にあるものをみていると、
ここに気がつくのだろうか?
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力を使わないこと、
思いを遂げようとはしないこと。
絶対に、しないこと。
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あー!そやったかー、というのは、
木の話。
真っ直ぐな木しか
建築資材としては全く価値がない、
という話になったのが
あれー、なんかそないなはなしあったなー。
と、禅の本の話やっったっけ?
『禅マインド・ビギナーズ・マインド』?
(この本もおすすめだったらしい。)
思い出したのが、この本。
『静まりから生まれるもの』
独り静まる生活
- Our Life in Solitude
キリスト者として生きるということは、この世に属さずに、この世に生き るということです。こうした内なる自由は、独り静まる中で育まれます。 イエスは祈るために寂しい所に出て行かれました。それは、自分の持つ力はす べて与えられたものであること、自分が語る言葉もすべて父からのものであ わざ ること、また、自分がする業はすべて、自分ではなく、自分を遣わされた方 の働きであることを、さらに深く自覚するためでした。この独り静まる所で イエスは、失敗してもよい自由を与えられたのです。
独りきりになる所のない生活、つまり、静かな中心を持たない生活は、簡単に破滅的なものになってしまいます。自分が何者であるかを証明するもの として、自分の活動の結果だけにしがみついていると、わたしたちは物事に 執着するようになり、自分を守るために身構えるようになります。そして他の人を見る目が変わってきます。命の賜物を分かち合う友としてより、なるべく近づきたくない敵として見るようになるのです。
独り静まる中で、自分の執着心で凝り固まった幻想の正体をだんだんと見 ることができ、そして、本当の自分とは、自力で勝ち取ったりするものでは なく、与えられるものであることに目が開かれてきます。 独り静まる中で、こちらが口を開こうとする前に語ってくださる方、誰かを助けようと動こう とする前にわたしたちを癒してくださる方、他の人を解放しようとするずっ と前にわたしたちを解放してくださる方、そして、誰かを愛そうとするずっと前にわたしたちを愛してくださる方の声が聞こえるようになるのです。
この静まりの中でこそ、何を持っているかより、生きている自分の存在自体が大切であること、また、努力した結果より、わたしたち自身のほうがはるかに尊いことが分かってくるのです。独り静まる中で、わたしたちの命は、奪われないように守るべき所有物ではなく、他の人と分かち合うべき賜物であることに目が開かれてきます。わたしたちが語る癒しの言葉はわたしたち自身のものではなく、与えられたものであること、わたしたちが示すことのできる愛は、より偉大な愛の一部分であること、わたしたちの生み出す新しい命は、しがみつくべき所有物ではなく、受け取るべき贈り物であることが 分かってくるのが、この静まりにおいてなのです。
独り静まると、自分の価値とは、どれほど人の役に立つかではないと気づくようになります。このことについては、老子の教えにある、大工とその弟子の話に出てくる老木から多くのことを学べるでしょう。
ある大工とその弟子が、深い森の中を一緒に歩いていた。 ある所まで来ると、そこに本の巨大な、節だらけの、見事な樫の老木があった。 すると大工は弟子に、「この木はどうしてこんなに高く、大きく育ち、たくさんの節をつけた見事な老木になれたか分かるかね」と尋ねた。弟子 は師匠をじっと見て答えた。
「分かりません。なぜでしょうか」 大工は答えた。「それはだな、これが役に立たない木だったからだ。もし、この木が役立つものだったら、とっくの昔に切り倒されて、机とか 椅子になっていたことだろう。しかし、何の役にも立たなかったからこ そ、おまえがその木陰に座って憩うことのできる、これほどの高さの見 事な木になれたのだ」
独り静まる中でわたしたちも、自分はどれほど人の役に立つだろうかという思いにとらわれずに、のびのびと年を取ることができ、自分が計画したわけではないのに、何らかの奉仕を人にすることができるようになります。そして、この世―それが、父、母、子ども、職歴、功績、あるいは報酬であっても―に依存することが少なくなればなるほど、失わないようにと守るものも少なくなり、むしろ分かち合うことがたくさんある信仰の共同体を建て上げることができるようになるのです。なぜなら、信仰の共同体として、わたしたちはこの世を大切にはしても、決して過度に重視しないからです。 このような共同体では、自分自身を笑うことのできた教皇ヨハネと同じ心をわずかでも身につけられるでしょう。勲章で飾り立てたある政府の高官が教皇にこう尋ねました。「教皇さま、ヴァチカンで働いている人は何人ぐらいいるのですか」。しばらく考えてから教皇は答えました。「そうですね。半分ぐらいでしょうか」
信仰の共同体として、わたしたちは一生懸命働きますが、結果が思わしくなくても崩れてしまうことはありません。信仰の共同体として、わたしたちは、次のことを絶えず確認し合います。わたしたちがまったくの独りきりに なる所で、「恐れるな。あなたは受け入れられている」と語ってくださるお方の前において、ありのままの姿で、弱さを持った者たちの交わりを形成しているのだ、と。
木の話がでてきたね❗️